シリア・ヨルダン旅行記

第2講話-I
2001.9.8(土)
デリゾール見学後、車中にて
呼ばれた者(1)
( I )人間の根底に横たわるもの 
a)創世記11章1―9節
 創世記1章から11章までは、「原初史」といいます。この原初史にはイスラエルは全く登場してまいりません。いわば全人類に適用できる原初の物語として書かれております。
 原初の物語りのテーマは大きく分けて2つです。ひとつは「天地創造」ということですが、その後、創世記の3章から11章まで、もっぱら人間の罪の問題が取り上げられています。
 まず3章では木の実を食べた「アダムとエバ」、4 章では「カインとアベル」、そして、6章以降は「ノアの洪水」の話になり、11章には有名な「バベルの塔」の話があります。人間の根底に横たわる罪についてです。プリントを見てください。
 創世記の11章、つまりこれから話をしようと思っているのは、聖書が「罪」をどのような視点で捉えているかということです。どのような視点から罪を見ているかということについて、これからお話ししたいのです。
創世記の11章です。
 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。
 「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしてしまおう。」
 主はそこから彼らを全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
 6節以下の神の言葉から見まして、「天まで届く塔のある町を建てよう」というこの企ては、何か神から見て悪いこととして捉えられています。しかし、この11章
以前に、「天まで届く塔のある町を建ててはならない」というような言葉はどこにもありません。だから、ここでの罪は神様が与えた指示に対する違反として捉えら
れているのではない。    
 では、どこが罪であるかということですが、3 節です。「れんがを作り、それをよく焼こう」。日干しれんがではなくて、よく焼いたれんが、という新しい技術を見つけ出したわけです。石ですと自分の思うような形を造り出すということは難しいのですが、れんがだったらそれが容易なわけです。そこで「石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。」アスファルトの方が粘着力がずっと強いわけです。
 先程、バスが大きく左側を通りましたが、右側の部分はアスファルトが溶けていてベトベトしているせいでしょう。運転手さんはそれを避けるために左側に回って行きました。
 ですからしっくいに比べればはるかに粘着力があるわけです。硬い素材と粘着力の強いものを見つけ出しましたから、当然人間の行うことは天まで届く塔のある町を建てよう、と言うということです。
   先ほど見てきました2番目の塔ジグラット=塔ですが、これはよく焼いたれんがで造られております。日干しれんがですと、高い塔を造ることは無理なわけです。
重量を支えることはとても無理ですから。ところが、よく焼いたれんが、硬い素材と、粘着力の強いものを見つけ出したわけですから、「天まで届く塔のある町を建てよう」ということです。
 「天まで届く塔のある」というこの表現は、ある一種の誇張表現で、「今まで思いもおよばなかった高い」という意味で使われているのだと思います。「高い高い塔のある町を建てよう」ということです。
 この企ては決して悪いことではありません。もし悪いことだと言えば、21世紀に生きる我々は悪の中にどっぷりとつかっていると言わざるを得ないわけです。これが悪いはずがないわけです。人間は新しい技術と新しい素材を見つけ出すことに一生懸命で、それを見つけ出せばそれを応用した新しいものを造り出していくわけです。だから、こんなに高い文明を持つことができたわけですから、それ自体が悪いはずがありません。
 だとすると、どこに悪さがあるかということなんですが、4 節ですが(傍線を引いておきました)「有名になろう」と訳しています。この言葉を直訳いたしますと、「我々のために名を作ろう」と訳すことができます。そう訳した方が良かったかなと思います。「我々の名を作ろう」これもある意味で人間にとって当然なことであるわけですが、だれも考えつかなかったような――、例えばマリの場合でしたなら、周りの町々では考えられないような高い塔を造り出すわけですから、それは自分たちの名前をつくることだ、と言ってもいいわけです。
 ですからこれも必ずしも悪いことではないわけです。しかし、「我々の名前を作る」ということは、相対的に「神の名」が忘れ去られていくということです。もちろん悪意があるわけではありません。神の名前を忘れてやろう、などという悪意があるわけではありませんが、我々の名前を作ろうとするあまり、神の名が忘れ去られてゆくわけです。聖書はこれを「罪」と呼ぶわけです。つまり、神が見えなくなる状態と言いましょうか、あるいは神は必要ではないのではないかと考え始めること、これを「罪」と呼びます。つまり、神の掟、指示に対する違反としての罪、これはもちろん罪ですけれど、それ以上に、もっと根本的なところに人間の罪があるというふうに聖書は見ているわけです。(b)の方を見ておきたいと思います。
b)創世記3章4―5節
聖書を見ておきたいのですが、創世記の3章の4節から5節です。蛇が女を誘う場面です。
 蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
 突然こんなところを出しまして、ちょっと分かり難いかと思いますが、蛇がエバを誘って木の実を食べさせようとしている場面です。ここに「善悪を知る」という表現があります。私はこの「善悪を知る」ということがどうして悪いんだろう、大いに善悪の区別が分かった方が良いのではないかと思ったわけですが、おそらくここはこんなふうに解釈するのがいいかと思います。
 「善悪」と訳しましたけれど、原文には「善」と「悪」の間に「と」に当たる言葉が入っています。つまり、「善と悪とを知るものになる」ということです。
 「善と悪」という表現ですが、これは「メリズモ」という表現だといっていいと思います。これはいつもお話しすることですけれど、「メリズモ」とは、両極端のことを挙げて、「すべて」ということを表す修辞法です。「北は北海道、南は沖縄」と言えば、日本全国を表すことになります。両極端のものを取り上げて、「全て」ということ表すわけです。 
 
 だからここで言う「善と悪」はいわゆる善と悪の区別を指していることではなく、「善から始まり悪に至る知識の総体」という意味で使っているであろう。  つまり善と悪というのはここでは、「全知」と言った意味で使っているだろう。
   だとしますと、この創世記3章でも人間の罪は掟に対する違反でもあるわけですけれども、違反の根底に巣くっているものは、神が見えなくなる、もっと自由になりたい、神様は我々を束縛する存在なのではないのか、と思い込むこと、これが根底の罪であります。
 ですからこの原初史ですが、創世記1章から11章まで、これは、創造の物語の後、もっぱら「罪」がテーマになっていまして、その罪を、仏教の方の言葉だそうですが「無明」という言葉がありますね、「明かりがない」という言葉ですけれども、この「明かりのない」という状態のことを「罪」と呼んでいると考えています。
遺跡が見えてきましたのでこの続きの話は後にいたします。

写真撮影:雨宮 慧

パルミラの遺跡
パルミラの夕日

BGM:Sonata per flauto, cembalo e basso continuo, (Op.2 No.2) by Marcello, Benedetto