シリア・ヨルダン旅行記

第2講話-II
2001.9.8(土)
デリゾール見学後、車中にて
呼ばれた者(2)
(II)「イスラエル」になるようにと呼ばれた者
a)創世記12章1―4
主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める。
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し、
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主に言葉に従って旅立った。
  この場所はハランということになっていますが、それ以前にウルから出発したときに、アブラムは我々が今通っている辺りを通っていたはずでして、さほど距離の離れたところを通ったとは考えられません。マリを通った後であろうし、このチグリス・ユーフラテス川に沿って北上して行ったであろうと考えられます。この部分の原本は以下のようになっています。
そして YHWH はアブラムに 向けて 言った
 この「YHWH」というのは、イスラエルの神の名前といっていいでしょう。特に出エジプトという出来事によって決定的な神として体験した神です。その神=YHWHがハランでアブラムに向かって言ったのです。
「行きなさい あなたのために」
  この「あなたのために」と訳している言葉は前置詞句ですが、これはほとんど意味なく使う場合がありますので、新共同訳はこれを訳していないと言ってよろしいでしょう。しかしながら、この前置詞句をとても強く意識する人たちは、出て行くことが、「行くことが あなたとなることなんだ」といった意味に捉えてゆきます。「あなたになるために出て行きなさい」ということですね。

  そのあとですが、

あなたの地から
あなたの親族から
あなたの父の家から
離れるべき場所が三つ表現で表されています。そしてその後に、「私があなたに示す地に向けて行きなさい」となっています。

 この文章はおかしいと言えばおかしいのです。どこがおかしいかと言いますと、我々が、「どこそこに行きなさい」と述べるときには、出発すべき場所はほとんど語らないで、行くべき場所について具体的に述べるのが普通です。ところがこの神の命令ですが、離れるべき場所に関しては三つの表現を使っています。しかも、「あなたの地」土地、ということでしょうが、非常に広い概念から始めまして、「あなたの親族」とだんだん狭めていきまして、そして最後に、「あなたの父の家から」。当時3世代が1家族を作り上げていたということが普通の状態でした。父母そして息子夫婦、そして子供たち、この3世代が一緒に生活することが普通でした。

 

  だから、「父の家」ということは、社会における最小の社会単位ということになります。ですから、「あなたの地から、あなたの親族から、あなたの父の家から」とだんだんと離れるべき場所を狭く絞り込むような形をとっています。このようなことから考えまして、離れるべき場所に非常に強調を置いた文章になっているということですね。
  それに対して、行かなければならない場所ですけれど、「私があなたに示す地に向けて」とだけ簡単に記されています。具体的にどこなのか、どちらの方向なのかも一切書いてないのです。歩いている途中に分かるといったような、そういった表現になっているということですね。
 そこで問題は、どうしてこれほどまでに離れるべき場所を強調しているか、これを考えてゆきたいわけです。
 先ほど申しましたように、11章以前は「原初史」、どんな民族にもあてはまる原初の物語りとして語られておりまして、創造の後に人間の本質的な部分と言ったらよろしいでしょうか、傾向と言ったらよろしいでしょうか、罪の問題が書かれております。それを前提にして12章1節を理解いたしますので、こんなふうに解釈することができるかなあと思います。
 つまり、1章から11章まで、原初史が語っているように、いわば自然的な共同体、つまり、地縁とか血縁に基づいた共同体は、どうしようもなく、11章以前が語るような意味での罪に陥っていく。「自分たちの名前を作ろう」こんなに硬い素材を見つけたのであるから、こんなに粘着力の強いものを見い出したのであるから、今まで考えられなかったような「天まで届く塔のある町を造ろう」と考えだすわけですね。これ自体は決して悪いことではありません。その後に、「自分の名前を作ろう、我々のために名前を作ろう」、このことだって必ずしも悪くはないのですが、名前を作ろうとするあまり、忘れ去っていくもの、それが神の存在である。
 それを考えますと、「あなたの地、あなたの親族、あなたの父の家」これはある意味で地縁、血縁に基づく、自然的な共同体を指していて、これは11章以前が語るように、罪への傾向をどうしようもなく強く持っている共同体です。そこから出て新たな共同体を作り上げてゆく。その共同体とは「私があなたに示す地に向けて」と書かれていますから、地縁とか血縁ではなくて、神を結び目とする新たな共同体ということになります。
 しかも、3節の1番最後、「あなたによって 地の氏族がすべてが 祝福されるだろう」と書かれております。ここでのすべての氏族とはイスラエルの中の12部族というようなことではなくて、つまり、まだ12部族というのは出来上がっておりませんから。つまり、アブラハムの後にイサク、イサクの後にヤコブ、ヤコブの後に12人の息子が生まれて12部族の祖となったと書かれていますから、ここでの「地の氏族のすべて」というのは、いわゆる「全人類」の意味で使われているであろう。
そうしますと、新しい共同体へと出発するアブラハムですが、これは神を結び目とする新しい共同体であって、この共同体によってすべての人類が祝福の地に入る、神の救いの計画はそこにあるというふうに解釈することができるだろうと思います。
 ですから、ウルとかハランの方が経済的にも物質的にもはるかに進んでいたでしょうから、そこにいた方が安全な生活ができる筈ですけれど、しかし、アブラハムは「あなたのために行きなさい」と言われて出て行くことになるのです。
 直訳の方を見ていただけますか。1節の2行目ですが、
行きなさい あなたのために
そして、4節1行目ですが、
そして アブラハムは 行った。
YHWHが 彼に 向けて 言ったように(行った)
つまり、日本語訳では訳し分けているのですが、「行きなさい」という同じ動詞が4節にも使われておりまして、神の指示通りに行動した、ということが書かれております。これがイスラエルと呼ばれる共同体の出発なのです。もちろんこの共同体なのですが、このアブラハムの歩みを見ても、またその後の歴史を見ても、決して神の望むような共同体にはなっていかなかったわけです。神はおそらくそれを体験した後、イエス・キリストという形で最終的な救いの手を差し伸べたということになるのだろうと思います。

写真撮影:雨宮 慧

パルミラの遺跡

BGM :  Concerto for Bb Clarinet in Bbmaj-II by MOZART, Wolfgang Amadeus