シリア・ヨルダン旅行記

第2講話-IV
2001.9.8(土)
デリゾール見学後、車中にて
呼ばれた者(4)
(III)イエスに呼ばれた者(続)
c)コリントの信徒への手紙一 1章22―25節
次のコリントへの信徒への手紙一の1章22節から25節まで、次はこれを読みたいと思います。パウロはこんなことを書いています。
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたち
は十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。
22節の一番最後に、「探しますが」、「が」という言葉を使っています。22節に登場する「ユダヤ人、ギリシア人」と、23節に登場する「わたしたち」が対照的な者として捉えられているということです。この22節の「ユダヤ人、ギリシア人たち」は何をしているかというと、「しるしを求め、知恵を探している」ということです。これはある意味では人間にとって必然的な事柄なわけです。なぜかと言いますと、人間はどうしようもなく価値とか意味を求め続けているという存在なのですが、生まれながらにどこに価値があるのか、何が意味があるのかを知って生まれてくるわけではないわけです。だから、青春時代と呼ばれるような、求め探し続ける時代というものは必然的にあるわけです。
 しかし、パウロは、イエスが登場して以来、全く新しい人類と言っていいのでしょうけれど、全く新しい人々が生まれたのだと考えているのです。もはや探したり求めたりする必要がなくなって、宣べ伝えている者がいるということです。ですから、「宣べ伝える」ということですから、宣べ伝えている事柄の中に意味、価値があると認めることができたという人、何を宣べ伝えているかといいますと、「十字架につけられたキリストを宣べ伝えている」ということですから、十字架につけられたキリストの中に、人間の生きる意味、存在の価値、そういったものが隠されていることになるのです。
 それでご存じだと思いますが、「キリスト」これは「メシア」ということでしたね。「メシア」はヘブライ語あるいはアラム語なわけですが、メシアは、「油を注がれた者」という意味ですから、普通は「王様」のことを指します。「キリスト」というのは、これはギリシア語でして、ギリシア語としてどのような意味をもっているかといいますと、「油を注がれた者」という意味です。
 だからメシアもキリストも、ヘブライ語とギリシア語の違いはありますけれど、意味している事柄は同じだということです。但し、「十字架につけられた油注がれた者メシア」、この中に答えがあるということです。だから、宣べ伝えているのです。23節の2行目以下ですが、そちらを読んでみたいと思います。十字架につけられたイエス・キリストを説明しようとしているのです。
ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
また23節の一番最後に、「愚かなものですが」と、「が」が使われていますから、22節後半に登場してくる「ユダヤ人や異邦人」は、24節に登場する「召された者」と、「ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、召された者」と対照的な者として捉えられている、ということですね。
 ユダヤ人にとって「十字架につけられた油注がれた者=メシア」とは、どのように映るかというと、「つまずかせるもの」・・・これも何度かお話ししたと思いますが、「つまずかせるもの」と訳されているギリシア語は「スキャンダロン」という言葉でして、これは「わな」をも意味します。このスキャンダロンという言葉の発音からもお分かりだと思いますが、「スキャンダル」の語源になっている言葉です。
 だからこんなふうに言い換えてもいいでしょう。「十字架につけられた油注がれた者、メシアというものはユダヤ人にとってはスキャンダル以外の何ものでもない」ということでしょう。「異邦人には愚かなもの」だということですね。救い主=油注がれた者、これは理想的なメシアを指していまして、理想的なメシアはユダヤ人を解放する者、人類を解放する者として捉えているのです。ですから、そういった常識から考えますと、十字架につけられて殺されるメシア、これは馬鹿らしくてとても聞いておれないということになるわけです。ユダヤ人にとっては解放者のはずですから、解放することもできず死んでしまってどうするのかということになるわけです。異邦人から見ればメシアとは救い主のことですから、その救い主ともあろうものが、自分をも救えないということは、これは一体どういうことでしょうか、まことに愚かな、ということになるわけです。
 

 

しかし、24節です。「ユダヤ人であれギリシア人であれ」と訳し替えておきたいと思いますが、「ユダヤ人であれギリシア人であれ、召された者には、神の力、神の知恵であるキリスト」と述べています。つまり、十字架につけられたキリストの中に神の力、神の知恵を見て取ることができる。条件は何かというと、「ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ」と書いていますから、どんな血が流れているかは無関係で、神から召された(この「召された」という訳語は良くないのですが)、「呼ばれた」ということ。つまり神から呼ばれた、神の介入を受けることになります。そうすると十字架につけられたキリストの中に神の力、神の知恵を見て取ることができるというわけです。
  ですから、ここでの「召された者」は決して修道士、聖職者になった人という意味ではなくて、だれであれ、「神からの力を受けた者は」といったことになりますね。
 先ほど「家の教会」(ドゥラ・エウロポスにて見学)が発展していく様子を目の当たりにしたわけですが、もちろんそれはある意味ではキリスト教の教会が発展していくこと、繁栄しているわけですから、決して悪いことではないと言っていいわけですが、その繁栄の結果、つまり、キリスト教が社会全体を指導するような原因になっていたときに、ヒエラルキーといってよいでしょうか、つまりピラミッドができ上がっていって、教皇を頂点とするヒエラルキーができ上がっていって、そして聖職者が上に立つといったような発想が出てきた。ある意味では神父が少なくなるというのは絶好のチャンスかもしれませんね。つまり、今までの体制が維持できなくなるということが明瞭なわけですから、今までの体制が壊れるということ、これは怖いことではない。怖いことがあるとすれば何かというと、「ユダヤ人であれギリシア人であれ呼ばれた者には」という人がいなくなってしまうことですね。それが聖職者であれ、あるいは神父であれ、「召された」という者が存在する限り、制度とか形は変わっても教会というものは残るはずです。
 ですから、すごく大切なのは、聖書的な概念での「呼ばれている、神から呼ばれている」ということ、これはほんとに大事なことなのだということです。

写真撮影:雨宮 慧

ユーフラテス川
マリの王宮

BGM :  Brandenburg Concerto No. 2b by J. S. Bach