シリア・ヨルダン旅行記

第2講話-V
2001.9.8(土)
デリゾール見学後、車中にて
呼ばれた者(5)
(IV)義とされて家に帰った人
c)コリントの信徒への手紙一 1章22―25節
最後にこの「義とされている」ということについてお話ししたいと思います。これは前にもお話しした事なのですが――、
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のようなたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
14節に、「義とされて家に帰った」という表現があります。「義とされて」という表現ですけれども、これは神との関係にふさわしいといった意味で使っているだろうと思います。神との関係にふさわしい、つまり、「呼ばれる者」はだれなのか、ということになるでしょうけれども、二人の人がたとえとして登場してくるわけですが、一人はファリサイ派の人。この人は確かに神に感謝しているのですが、しかし、その前を見ますと、「他の人たちのように、不正な、姦通を犯す者でなく」と自分より劣った者を引き合いに出します。もう一人引き合いに出しているのですが、「この徴税人のような者ではない」と言っています。「律法を守ることができないような者と違って」と言うことでしょう。
 つまり、こういった表現を使っているのは、おそらくはファリサイ派の人は自分の弱さを知っていただろうと思います。
  ただし、その弱さをどのように克服しようとしたかということですが、自分の努力によって弱さを克服すべきだと考えたということです。そこで、彼は努力に努力を重ねたのです。それは、この12節、「わたしは週に2度断食し、全収入の十分の一を献げています。」当時、断食は週に1回で良かったのです。それから十分の一税です、神殿に払われるべき十分の一税ですが、これはすでに前の人が支払っているならば、それについて新たに十分の一を支払う必要はありませんでした。ところがこの人は、念には念を入れて、前の人が十分の一税を払ってなければ大変だということで、全収入に対して、十分の一税を払っていたわけです。つまり努力家のわけです。努力で弱さを克服しようする人、この人はイエスによると、神との関係においてふさわしい人ではない、と言われているということです。
 それではふさわしい人は誰なのかと言いますと、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』」つまり、自分の弱さ、この人も克服しようと何回も思ったかもしれないわけですが、そのたびに失敗している憐れな人なのでしょう。自分の駄目さ加減というものを徹底的に知っているのかもしれません。この人は「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『憐れんでください』」。この「憐れんでください」という言葉が神との関係に答えているということです。弱さを知る、強さを求められていることではなくて、弱さを神の憐れみに出会うためのものにするということ、これが神の前にふさわしい行いであり、呼び出された者、ということになると思います。もちろんこの「呼び出された」ということも問題がすべて解決するということではなくて、さまざまな問題に直面していくということでしょう。

 しかし、新約聖書によりますと、十字架につけられたキリストの中に、神の正しさと神の愛が徹底的に示されたということ、その十字架を身に受けるときに我々はいろいろな問題を解決することができるのだ、と説いているのだと思っています。
 ですから、アブラハムですけれどもね、この辺りを歩いて行ったかもしれませんが、創世記12章はハランから約束の地に入って行く所ですから、まだ神の言葉は聞いてないということでしょうから、しかしですね、この辺りを歩いて行くときに、将来どうなるのだろうという不安にさいなまれることもあったに違いない、と思います。その中で神の言葉を聞いていくということなのだろうと思います。
 それではこれで終わりにしたいと思います。

写真撮影:雨宮 慧

ドゥラ・エウロポス
ユーフラテス川

BGM :  Brandenburg Concerto No. 4b by J. S. Bach