シリア・ヨルダン旅行記

ミサ説教
2001.9.9(日)
於:アレッポ
CHAM PALACE
年間第23主日C年
第一朗読 知9:13-18
第二朗読 フィレ9b-10, 12-17
福音書 ルカ14:25-33
今日の福音で、「私の弟子ではあり得ない」「私の弟子ではあり得ない」「私の弟子ではあり得ない」と、三度にわたってこの表現を繰り返していますから、イエスの弟子とは誰なのか、それを語っているのは明らかです。
 一体イエスが考える弟子とはどのような人のことなのでしょうか。私たち日本人は特にそうかもしれませんが、大体において理想に向かって努力することこそが人間の生き甲斐だ、そう考えているに違いありません。理想を高く持って、それに向かって努力することに生きる意味がある。このような言葉は、言葉それ自体としては非常に正しいでしょうが、聖書はいったい、「弟子」とは、「高い理想を掲げて努力する人」と考えているのでしょうか。
 
第一朗読でこのように述べています。

死すべき人間の考えは浅はかで、
わたしたちの思いは不確かです。
…………
地上のことでさえかろうじて推し量り、
手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、
…………

 

ドゥラ・エウロポス

これが本当だとすれば、私たちが理想を目指して努力するという生き方をする限り、多くの場合、理想をめぐって争いが起こる、というのは当然のことなわけです。「人間の考えは浅はかで、思いは不確か。地上のことさえ、かろうじて推し量れる」に過ぎない。それを認めないなら、一人ひとりの考える理想は大きく違っている。言葉では同じであったとしても、その中身は全く異なっているということが起こってしまうのもごくごく当たり前。だとすると、高い理想を掲げて努力するという生き方も、自然のままであるなら争いを引き起こす。例えば、平和という理想を高く掲げたとしても、その平和の具体的な中身が何であるか、それはイスラエルの人にとってとアラブの人にとってでは、全く違ってくることになります。従って争いが起こる。だとするなら、「高い理想を掲げて努力する」、言葉自体としては、大変正しいことですけれど、現実には争いを引き起こさざるを得ないということになります。一体聖書は、人間の生きる意味をどこに求めているのか。
 
今日の第二の朗読です。フィレモンへの手紙が朗読されました。フィレモンは資産家だったらしく、奴隷も持っていました。今日の朗読からもよく読めばわかりますけれども、オネシモはフィレモンの奴隷でした。しかし、逃亡してしまいました。借金が残ったまま逃亡してしまいました。どういう縁があったのか全くわかりませんけれども、オネシモはおそらく、エフェソにいたと思われるパウロのもとに行き、そのとき、パウロはキリストのゆえに牢獄に入れられていましたけれども、そのパウロに巡り合うことになります。そして、パウロによってキリストを信じる者に変えられていきます。ですから、今日の第二朗読の冒頭で、次のように述べられています。
 
年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。
 
「監禁中にもうけたわたしの子」、オネシモをそのように言っています。当時、市民法として奴隷を当然とする社会ですから、奴隷なしには成り立たない社会でしたから、市民法として逃亡奴隷を見出したら、すぐに主人のもとに送り返さなければならないという規定がありました。しかも、逃亡奴隷を専門に追いかける機関すら存在していました。パウロはオネシモに関して、主人であるフィレモンに願いを持っていますけれども、この社会のルールに一応従って、オネシモをフィレモンのもとに戻すことにします。
 フィレモンの下には教会があった、ということが書かれています。「あなたの家の教会」という表現がこの手紙には出てまいります。家の中に教会を置くような、ただし、「家」といっても、どのような家であるのか、それはわかりませんけれども、しかし、家の一部を教会として使うことを喜んで申し出たフィレモン、そのようなフィレモンであっても、時代の子ですから、逃亡奴隷が帰って来たときにどのような仕打ちをしてしまうか、パウロも心配であったに違いありません。一抹の危惧を抱いたパウロは、この手紙を持たせて、オネシモをフィレモンの下に返しました。
   
恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。

オネシモが逃亡したことに関しては、神が働いているのだ。「彼をいつまでも自分のもとに置くためだ」。しかもその場合、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛する兄弟として自分のもとに置くために」神が介入したのだ。そんな調子でパウロは書いています。
 逃亡奴隷を主人のもとに戻すわけですから、パウロは力ずくで奴隷制を変えようとはしていません。それに従っているといってもよい。しかし、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟として受け入れろ、と述べていますから、いわば奴隷制が内側から変質していくことになる。奴隷制が存在しないのと同じことになる。力ずくで奴隷制を変えようとはしていませんけれども、神の介入を認め、愛する兄弟として受け入れるときに、実質的に奴隷制は無くなっていくのだ。これがパウロの考えといってもよいかもしれません。
 神の介入を認めなければ、イスラエルの人の考える平和とアラブの人たちの考える平和と中身が違っていて、争いになる。互いに唯一の神、しかもその神がどのような神であるかをはっきりと知るなら、平和の中身も全く同じものになっていく。その時に初めて平和が、意味のある平和になっていく。政治家が掲げているスローガンとしての平和ではなく、私たちが本当に求めている平和、それが実現することになる。
 確かに理想を高く掲げて努力する、それは悪いことではない。しかし、人間の考えは浅はかですから、限界がありますから、不確かですから、理想をめぐってけんかになるということにならざるをえない。

 
  今日の福音でも、理想を掲げることの危険性を指摘しているように思います。イエスはこのように言われました。
もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではあり得ない。
 


エブラ

父、母、妻、子供、兄弟、姉妹――、人間関係、家族関係を表す表現が使われていますけれども、「夫」が抜けています。夫が抜けていますから、イエスが語りかけている相手は、父、母がいて妻がいて、子供があって兄弟姉妹もいる。そういった大家族のいわば大黒柱とならなければならない「夫」に向けて語られているのかもしれません。そのような夫に向かって、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹さらに自分の命であろうとも憎め、と言っています。まさかそのような大黒柱に向かって、家庭を捨てて修道院に行け、というようなことを、イエスが言うはずがありません。
 だとすれば、この「憎め」とは一体何なのか。私は、「自分の十字架を背負って」という表現に鍵があるように思います。本文の上での根拠は実に弱い、ということを私自身認めますけれども、ここでの「十字架」は、おそらく前に父、母、子供、兄弟、姉妹、と家族関係を表す言葉を使っていますから、家族関係に伴う何か重み、それを「十字架」と呼んでいるはずです。
 だとすれば、あるがままの父、あるがままの母、とてもこうあってほしいと願うような姿を持っていない父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、あるがままの家族を「十字架」と呼んでいるのかもしれません。あるがままの相手を自分の十字架として背負え、そうでなければ私の弟子ではあり得ない。
 もしこれが正しいとすれば、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、自分の命を憎めというときに、あるがままの父、母、などのことではなく、おそらく自分が頭の中に勝手に描いている相手に対する期待像――、父にはこうあってほしい、母にはこうあってほしい、妻はこうあるべきだ、子供はこうあらなければならない、そう言った期待像を憎んで捨てろ、と言っているのかもしれません。
 なぜ、あるがままの相手を、そのまま背負うことができないかと言えば、相手に対する期待像があるからです。期待像がある限り、あるがままを背負うことはできない。理想は自分自身について理想を持つのであればまだしも、相手に対して理想像を持つならば、それは相手にとって迷惑至極と言うことかもしれません。しかし、あるがままの相手をそのまま自分の十字架として背負うというようなことは、私たちにとって本当に難しいことであるに違いありません。
 しかし、イエスは私のもとに来る、私のあとに来る、と述べていますから、イエスのもとに行って、イエスの後を行くならば、十字架を背負うことが容易になると考えているのだろうと思います。
 そう言えば、旧約において、あれほど律法、律法と神が要求したのは、私たちの理想像をかぶせようとしたのかもしれません。こうあって欲しい、こうあるべきだ、そこに悪意があろうはずがありません。しかし、新約において、神は私たちに対する期待像、理想像を一切捨てて、私たちのあるがままを十字架として背負ってくださる。だから、イエスのもとに行って、イエスの後をついて行くということは、背負われた者として、背負って行くということになります。

  だとするならば、今日の三つの朗読の中で私たちが教えられていることは、語りかけられていることは、あるがままを担え。理想を高く掲げているというよりは、あるがままを担え。その時に相手を、私を、真に生きる者になる。そうでなければ、だれかが勝って、だれかが負けるという世界がつくり出されて行く。

  どうか、神が私たちのために、どのようにふるまってくださったのか、それをしっかりと心に留めることができますように。心に留めて、私たちもまた、そのように生きることができますように。そのように生きる力、キリストが私たちの内に来てくださるように、今、私たちはキリストの体をいただきます。

 
 

写真撮影:雨宮 慧

ドゥラ・エウロポス
エブラ

BGM :  King of Glory King of Peace by J. S. Bach