シリア・ヨルダン旅行記

第3講話-I
2001.9.9(日)
エブラ・ラタキア見学後車中にて
イエスの弟子(1)
 
「聖書と典礼」をどういうふうに読んだらいいかということですが(これは前にお話ししたことがあると思いますが)。例えばよく教会で行われるのは「分かち合う」という読み方がございますね。自分たちの生活に照らし合わせて聖書を読もうということなわけです。自分たちの生活に照らし合わせて、ということはとっても良いことなのですが、しかしですね、本文が何を書いているかということを理解した上でないと、聖書に勝手なことを語らせるということに終ってしまう危険性があると私は思うのですね。
 ですから、「分かち合う」というものを、もっと意味があるものにするためには、やはり本文をきちっと読むことから始めないといけないと思います。つまりちょっと皮肉を込めて言いますと、「分かち合い」を、本文を読む手間を避けるための言い訳に使ってはいけないと思います。そうでないと、聖書が本来語ろうとしていることではないことを語って、あたかもそれがイエスの考えであるかのように述べていくということになってしまう危険性があるわけです。
 そこで、今日の福音で、私だったらどのように読んでいくか、ということについてお話ししてみたいと思います。今日のミサの中で朗読いたしましたので読むのは止めたいと思います。
 
(1)憎んで、背負って(ルカ14章25―33節)
26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
ルカ14章の26節を見てください。「わたしの弟子ではありえない」とあります。それから27節にも「わたしの弟子ではありえない」。つまり、弟子の条件が書かれていまして、その後、28節―32節に二つの奇妙な、と言ってもよいたとえ話が並んでいます。その後に33節がありまして、これでイエスの言葉が閉じられていくわけですが、ここにも「わたしの弟子ではありえない」という表現が出てまいります。
 だから「わたしの弟子」とはだれであるか、ということをテーマにしているのはまず問題はない。ただ問題は大きく二つあって、一つは28節―32節の、この二つのたとえ話が「弟子の条件」という全体的なテーマとどこで重なっているのか、どういう関係を持っているのか、それが分かりにくいということが第一点。
 第二点は特にこの26節ですが、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、……」と書いております。つまり、ここで「憎む」という表現が出てくるのです。よく解釈されるのは、「より少なく愛する」という意味だ、と取っていくわけですけれど、そういう可能性もなくはないのですが、とにかく、「憎む」という表現が使われているわけです。これをどう解釈したらよいのか、「憎む」いうことで何を言おうとしているのか、それが問題だということです。
 そこで、まず第一の問題から解決させてしまおうと思いますが、二つのたとえ話です。これが弟子の条件ということとどこで重なっているか、ということですが、まず33節の冒頭を見ますと、「だから、同じように」と書いてあります。その後に、「自分の持ち物を一切捨てないならば」とあります。
 ここに「捨てる」という言葉が出てまいります。「だから、同じように、捨てないならば」と書いてありますから、28節から32節のたとえ話も、何か「捨てる」ということと関係しているだろうということです。そうでなければ「だから同じように」という表現は使わないはずです。
 原文でも全く同じで、「だから、同じように」と書かれております。そこで、28節から32節のたとえ話ですけれど、何か「捨てる」ということをテーマにしているたとえ話のはずです。そうでなければ「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば」とは言わないはずです。
 そこでこのたとえを見ていきたいのですが、この二つのたとえは全く同じパターンでできあがっています。

 

28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、
造り上げるのに十分な費用があるかどうか、
まず腰をすえて
計算しない者がいるだろうか。

29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、
二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、
まず腰をすえて
考えてみないだろうか。

32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
 まず28節の一行目ですが、「あなた方のうち、塔を建てようとするとき」――「……しようとするとき」という文章で始まります。
 31節ですが、「また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは」――「……しようとするときは」と始まります。
 28節の方に戻ります、二行目ですが、「造り上げるのに十分な費用があるかどうか」――「……であるかどうか」という疑問文が出てまいります。
これは31節の二行目、「二万の兵を率いて進軍してくる敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか」と対応しています。
 さらに、疑問文が出てまいります。28節の三行目ですが、「まず腰をすえて」という表現が出てまいります。31節の三行目にも、「まず腰をすえて」とありまして、そして、28節の四行目、「計算しない者がいるだろうか」というように、修辞的な疑問文で閉じています。「そんな者はいない」ということです。31節の四行目も修辞的な疑問文で結んでいます。「考えてみないだろうか」。

 28節と31節は完全に重なるように作り上げられているわけです。そこで、29―30節と、32節は、そうしないときに起こってしまう事柄、あるいは、考えてみた結果、こうした方がいい、と考えた方策を32節には書いているということですね。
 ですから、28節から30節と、31節から32節は完全に重なるといって良いと思います。つまり、対になっているたとえ話であるわけです。対になっているたとえ話ですから、同じ表現があるとすれば、その表現こそたとえ話が語られた目的ということになります。そう言っていいだろうと思います。同じ表現があるかと言いますと、まず、「腰をすえて」という表現が出てまいります。だから、この対になっているたとえ話では、「まず腰をすえるではないか」、このことを言いたいのだろうと思います。塔を建てようとしている人、戦争を始めなければならないのだろうかと思案している王様を取り上げまして、どちらの場合にも、「まず腰をすえるではないか」ということですね。
 「まず腰をすえる」ということを言って、何を言おうとしているかということですが、これはおそらくこう解釈していいのだろうと思います。つまり、塔を建てたり、戦争を行おうかということですから、準備しなければならない事柄というのはたくさんあるわけです。あれもしておかなければいけない、これもしておかなければいけない、準備に手間をかけなければいけないわけですけれども、しかし、それらを放っておいて、捨てておいて、「まず腰をすえるではないか」、「考えるために腰をすえるではないか」、ということです。
 ですから、このたとえは、「まず腰をすえて」という表現にポイントがあって、このポイントで表そうとしていることは、「一切、他のことを捨てて」という意味なのだ、それを言おうとしていると言っていいと思います。
 そう考えれば、33節とぴったり重なるわけです。

         だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、……わたしの弟子ではありえない

とあります。

つまり、このたとえは「一切捨てる」という点で、弟子の条件と重なるたとえであると言って良いと思います。これで第一の問題はそれだけで、終わりにしたいと思います。

 第二の問題です。それは「憎む」という表現で一体何が言い表されているか、という問題です。33節の方に、「自分の持ち物」、新共同訳はこの「もの」を、漢字の「物」と訳しているのですが、これは平仮名の「もの」に替えておいた方がいいと思います。「自分の持ちものを一切捨てる」ということが弟子の条件として語られているのです。だから何かを捨てなければいけないということが言われているのは明らかです。
 そこで、何を「捨てる」のかというのが問題なのですが、それがおそらく26―27節に書かれているだろうということです。26節の冒頭は、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても……」と、条件文で書かれているわけですが、この条件文の後に、「わたしの弟子ではありえない」という表現が来るわけですから、この条件文の部分に、いわばイエスの考える弟子の条件が書かれている訳です。「……でなければ弟子ではない」と言っているのですから、「……でなければ」という部分に弟子の条件が書かれているということです。
それで、26節の前半を直訳しますと、
もしだれかが私のもとに来る
そして父………を憎まないなら
 
これが条件として描かれているわけです。だから「私のもとに来る」ということと、それから「憎む」ということが条件になっているわけです。

27節の条件文の部分ですが、このように書かれています。
だれであれ自分の十字架を背負わない
そして私の後を来るなら
と、いうことになります。つまり、日本語の訳ではそれがあいまいになっているのですが、四つの動詞が使われています。「私のもとに来る」「憎む」「背負う」「私の後を来る」。
 最初と最後ですが、「私のもとに来る」と「私の後を来る」これが肯定形で書かれています。真ん中の「憎む」と「背負う」これは否定形で書かれています。このことから考えますと、おそらく、「私のもとに来て」「私の後を来る」人たちがいるのですけれど、しかし、「憎まずに背負わない人たちがいる」その人たちは、「私の弟子ではない」ということをイエスは言おうとしていると思います。
 ですから、こういう形から見まして、「憎む」と「背負う」とが、非常に強調されていると思われます。弟子にとって重要なのは、もちろん、「私のもとに来て、私の後を来る」ということですけれど、それと同時に、「憎んで」「背負う」ということが弟子の条件であるということが強調されているということですね。
 もう一度、この四つの動詞ですが、「私のもとに来て、憎んで、背負って、私の後を来る」ということになるわけですが、これはいわば、最初と最後の動詞を見れば端的に分かるように、別々の切り離された行為が書かれているのではなくて、おそらく一連の動きが書かれているのだろう。つまり、まず、「私のもとに来る、そして、憎んで、そして、背負って、最後に私の後を来る」。こういうような一連の動作が書かれているのだろうということなわけですね。だとしますと、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、さらに自分の命であろうとも憎む」ということと、「自分の十字架を背負う」ということとは、全く無関係の事柄として語られているのではなくて、つながりのある一連の動作として捉えているであろう。「憎んで、背負う」わけです。ここまでは本文からしてまず間違いないこととして言えるだろう。文章にそう書いてあると言い切ることができるだろうと思います。
 問題はこの後からですが、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、さらに、自分の命を憎んで、自分の十字架を背負う」ということで何が言われているかということですが、ここから先は私の思いつきのようなところが大分入ってきますので、反対する方もいるかもしれませんが、私はミサの説教の中でも申し上げましたけれども、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」と家族関係を表す言葉が並べられていますから、だから、自分の十字架という表現も一般的な十字架ではなくて、家族関係に伴う何らかの十字架を指しているのであろう。重たいもの、荷物といっていいもの、これを指しているだろう。
 そうしますと、思いつくことは、あるがままの、父親、母親、妻、子供、兄弟、姉妹ですね。この「あるがままの姿」ということはなかなか受け入れ難いものです。父親にはこうあってほしい、母親はこうあるべきだと考えますが、なかなかあるがままを背負うことはできない。だから、ここでの「自分の十字架」は、あるがままの家族、あるがままの父親、母親、そして自分の命でさえも、と書いていますから、おそらく自分について自分はこうあるべきだというような――、その前に、自分があるままの状態、弱くてだらしなくてということと言っていいかもしれませんが、これをも「自分の十字架」という表現で表しているのではないかと思います。
 これもミサの説教の中で申し上げましたが、「夫」という言葉が抜けているわけです。だから、父、母がいて、妻がいて、子供がいて、兄弟姉妹と一緒に生活している夫、これに向けられて語られているという形をとっているであろう。だとしますと、大黒柱のわけですから、その大黒柱に向かって文字通りに、「家庭を捨ててしまえ」ということを言わないだろうと思います。だとしますと、説教の中でも申しましたけれども、ここでの「妻、子供、父、母」これはあるがままの
姿を、「自分の十字架」というふうに指しているわけですから、捨てなければならない父母、妻、子供などは「理想の」、と言いますか、「期待の」父親、母親像、これを指しているのだろうということです。
つまり、あるがままの相手を背負うために、勝手に(と加えていいと思いますが)相手に対して、覆いかぶせている期待像、これを「憎んで、捨てろ」、と言っているのだ
ろうと思います。だからしつこいですけれども、「憎んで、捨てろ」、と言われている父親、母親は、あるがままの、そこに存在している、父親、母親ではなくて、我々の父親はこうあってくれればいいのに、と思っている「期待像を捨ててしまえ」、と言っているのではないかと思います。
 そのように考えますと、「自分のものを捨てる」と33節に書かれているわけですけれど、これは、「所有物、財産を捨てる」ということよりは、おそらく「自分が勝手に思い描いている夢、期待、これを捨ててしまえ」と言っているのだろうと思います。
 それはまずい、残酷なことではないか、と言われればそうだと思いますが、ただ旧約聖書からずっと聖書のテーマになっているのは「偶像」だと言えます――そして、我々は今回の旅でさまざまな偶像を見てまいりましたが、今日はアレッポの考古学博物館の前にイシュタールとハバドの像など、偶像を見てまいりましたが――。
 聖書の中で「偶像」はどういうふうに捉えられているかと言いますと、自分の夢とか期待を投影して捉えられています。強くありたいとか、健康でありたいとか、仲良くしていたいとか、財産に恵まれていたいとか、一切の夢の投影が偶像として捉えられているわけです。  それで、これも度々申し上げていることですが、偶像礼拝者たちも、たとえばハバドとかイシュタールの像を礼拝している人たちも、あの像がそのまま神だとは考えていませんでした。あれを神と思い間違えることが偶像礼拝なのではありません。ああいう像を持つことによって、神の秘密の力を、いわば利用することができるというふうに捉えていました。だから、どういう形で表せばその神様は我々の期待に応えてくれるのか、それを一生懸命探ったのです。だから、「偶像」とは「神の秘密をのぞき込む」と言いますか、「秘密の力を使うためにのぞきこむ通路」のように捉えていたわけです。
 ですから、聖書が偶像を作ることを禁止しているのはなぜかと言いますと、像が神と間違えられたら大変だということよりは、そういう心配はほとんどなかったと言って良いわけです。そうではなくて、自分の夢を最高の価値にしていく生き方が問題である、と考えているのです。自分の夢ではなくて、神が私に望んでいること、それを中心にして生きていくべきだというのが聖書の基本的な見方です。ですから、偶像は必要ではありません。偶像はいわば人間が神をのぞき込むための通路でして、人間がその通路を手に入れると、自分の夢をかなえるために利用していくということ、むしろ人間にとって大事なのは、「聞く」ことです。この聞くこと、あるいは「見る」ことです。神の言葉の中に、あるいは出来事の中に神のみ旨を見る、聞くということが人間にとって最も大事なこととして捉えられているわけです。
 そのことを考えますと、「夢を捨てろ」というのは、決してイエスが我々に突き付けた無体な要求ではなくて、むしろ、聖書が常に問いかけている、教えている生
き方といってよいわけです。それでこれもミサの中で申しましたけれども、こういうふうにこれを見てまいりますと、旧約聖書とつなげることも容易になってまいります。つまり、旧約聖書で神があれほど、「律法、律法」と述べたのは、我々にこうあってほしい、という期待像を強く持っていたからだと説明することもできなくはないのです。しかしですね、新約では、我々にこうあって欲しいとする期待を全部捨ててしまって、我々があるがままの、だらしなくて弱くて何もできない、ちょっと成功すると自分よりも劣っている者を引き合いに出して、こんなに立派になったというふうに言いたくなる、こういった人間の現実、これを神は自分の十字架として背負ったのだ。だから、私のもとに来て、憎み方を知って、背負い方を教えてもらって、私の後をついて行くということ、イエスの後をついて行くということ、つまり背負われている者とし
て背負うということ、これがこのテーマになっているのだろうと思います。
 こんなふうに読んでまいりますと、私の勝手な思い込みかもしれませんが、無理のない読み方になっていくと思います。これだけ準備した後で、「分かち合い」をするならば、もっと深い分かち合いになるだろうということなわけです。だから、「分かち合い」ということはとっても大事なことですが、手間を省くための言い訳にしてはならない、ということです。
 

写真撮影:雨宮 慧

エブラ

BGM :  Fugue in D-, BWV565 by J. S. Bach