シリア・ヨルダン旅行記

第3講話-II
2001.9.9(日)
エブラ・ラタキア見学後車中にて
イエスの弟子(2)
 
(II)新しい創造(ガラテヤの信徒への手紙 6章14―16節)
最後に「ガラテアの信徒への手紙」6章14節が上げられておりますが、これを読んで終わりにしたいと思います。
しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。
 
なぜならば、背負われた者として背負うわけですから、背負われた者、つまり、キリストの十字架というものが、我々にとってすべての土台、根拠なわけです。それは、我々にとっての誇りでもあるわけです。背負うことのできる根拠になっていますから。

この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。

今、申し上げたようなルカの14章のこういった考え方というものは、世の常識から見れば、ばかげているのです。相手の間違っているところを批判して正してあげることこそが大事なのに、あるがままを担ってどうするのだ、というのが常識的な考えです。そして、そういう場合は、大体は自分が正しいと考えているわけですけれども、この世の常識は十字架という考え方と全く反していますから、十字架に背負われ、背負われている者として、自分の十字架を背負っている者は、世と対立関係にあるということです。
 だから、「世はわたしに対し、はりつけにされてしまっている」。無意味なものにされている。私は世から見れば無意味なものとされている。つまり世と私は十字架をめぐって正反対な存在であるということを述べているのです。

割礼の有無は問題でなく、大切なのは、新しく創造されることです。

  
「この新しく創造される」と訳している言葉は、第二コリントの5章を話したときに話したと思いますが、そこにもある表現です。「新しい」という形容詞と、「クティシス」というギリシア語ですが、「創造」あるいは「創造されたもの」を表すことのできる言葉です。新共同訳はこのガラテヤの信徒への手紙では、「創造」そのものを指すと考えて、「新しく創造されることです」と訳しました。もちろんこの意味だと思います。
 ただし、第二コリントの方では「新しく創造された者なのです」(5章17節)というふうに同じ表現を訳しています。ここはちょっとまずい訳で、ここも「新しく創造されることです」と訳すべきではないかと思うのですが。
 ともかく、パウロがここで何を言いたいかと言いますと、「キリストと結びつくことによって、神の新しい創造の業が起っているのである」ということを主張しているのです。何かとてつもないことが言われてしまっていますので、にわかには信じがたいのですけれども、キリストと結ばれるときに我々は全く新しい者に造り替えられているのだ。だから、背負われた者として背負うことができるのだ、と主張しているのだと思います。
 
このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

このように書きまして、パウロはガラテアへの信徒への手紙を閉じていくわけです。ですから聖書の考え方というのは、自分の夢を先に立たせずに、むしろ捨てて、神のみ旨がどこにあるのか、それを中心に生きるという生き方になっているわけです。そのために自分の夢とか希望を一切捨てるということになるのです。それはルカの言葉にも出てまいりますけれども、それはかえって真の父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、これを見い出して、共に生きることにつながるのである、というふうに聖書は考えているということです。


それではこれで終わりにしたいと思います。

写真撮影:雨宮 慧

ウガリット

BGM : Air on a G String by J. S. Bach