シリア・ヨルダン旅行記

 

第4講話-II
2001.9.11
「コーカブの丘」見学後、車中にて
パウロの回心 II-2
 
(II)「迫害する者」から「迫害される者」への回心
a)フィリピの信徒への手紙3章4-11節
  4とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。5わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、6熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
黄緑色をつけておきました5―6節、これはいわばダマスコの近郊に着くまでのことが書かれています。特に注意したいのは6節の「熱心さの点では教会の迫害者」と述べている表現です。これは度々申し上げていることですけれども、何に対して熱心なのかと言えば、もちろん神だと思います。神に熱心であろうと思ったわけです。だから、「律法の義については非の打ちどころのない者」として生きたわけです。神に熱心に仕えたいと考えていたパウロですけれども、そのためにはキリストを信じる者たち――、ユダヤ教とキリスト教の境目はそのころ非常に曖昧でしたから、パウロ自身もいわゆるキリスト者を、ユダヤ教の枠内で捉えていたかもしれませんけれども、とにかくイエスをキリストと信じる者は正統派ではない、あれは異端であって排除しなければならないと考えたわけです。
 そこで教会、つまり、キリストを信じる者を迫害したわけです。もちろんパウロは神の御旨を読み間違えていた、ということなわけですが、しかし、神に熱心に仕えようと考えていた点では間違いはなかったのです。ここに信仰というものが持っている怖さがあるのです。本人は熱心に仕えようと考えているのですけれども、神の目から見るとずれていることがあり得るということです。だからこのパウロの場合は、イエスがキリストであろうはずがない、「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが」(1コリ1:23)と書いていますけれど、メシアともあろうものが十字架にかけられて、ぶざまに死ぬということはあり得ない。もっと力強い解放者なのであって、あれをキリストと信じるような馬鹿者は目を覚まさせてあげる必要がある。そのためにも熱心に迫害を加えなければならない、ということのわけでしょう。しかしですね、「神が御心のままに御子を示してくださった」ときに、「違う」ということに気づかされたのです。それが7節以下でこのように書かれています。
7しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。8そればかりか、わたしの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、9キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
  つまり、熱心さの点では神に熱心に仕えようとしたこと。律法の義に関しては非のうちどころない者として生きようとしたこと。これらのことは救いのためには有利なはずと考えていたけれども、「キリストのゆえに」、神が御心のままに御子を示してくださったその「キリストのゆえに」損失と見なすようになったのです。
 最初の時でしたか、ルカの18章、「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」。ファリサイ派の人は、まず、神に「感謝します」と言いました。何を感謝するかというと、「姦通を行うような、盗みを行うような者でないことを感謝します。またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を納めている」と述べたわけです。その時お話ししましたけれども、おそらく、このファリサイ派の人は、人間の弱さということを熟知しています。ただし、その弱さを自分の努力で克服すべきものとして捉えています。そこで、週に二回断食しているし、全収入について十分の一を支払うことを行っていました。この律法をきちんと守って(いわばパウロが、「律法の義については非の打ちどころのない者」と書いているのですけれども、パウロ自身もファリサイ派の一員だったわけですが)、このように生きることに成功したときに胸を張りたくなったわけでしょうね。そこで、「この徴税人のような者でないことを」と述べているのです。これに対して「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」と徴税人は祈りました。どちらが義とされて神に対してふさわしい人間とされたかというと、「ファリサイ派の人ではなくて、徴税人であった」とイエスは教えるのです。そこで、これを思い出していただきたいのですが、フィリピ3章9節です。
 
わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
 
つまり行いが我々を救いへと導くのではなくて、イエス・キリストを信じる信仰、イエス・キリストによって我々は生まれ変わっていること、罪をふき消されて、新たな命のうちに生き始めているのだ、と信じる信仰によって救われているのである、とパウロは主張するわけです。
 もうひとつ付け加えておきたいのですが、パウロにとって非常に重要だと思いますので。黄緑色の部分、5節から6節です。ダマスコ近郊で神が御心のままに御子を示してくださる以前のパウロの生き方が5節から6節に書かれています。この生き方のことを4節でこう述べています。
4とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです
 
と述べて、5節から6節のファリサイ派の一員として生きていたときのパウロの姿が描かれています。だから、「肉に頼る」という生き方は、5節から6節にかけて描かれている生き方をする人だということになります。
 ここから分かりますように、聖書は「肉」という言葉を、直ちに「肉欲」とか、「罪の原因」とか、そういうふうには捉えていません。「肉」という表現を使うときには、「神を必要としない生き方」のことを、つまり、「人間の生まれた状態のままの自然の人間」と言ったらいいでしょうか、「神との関わりがない人間」これを「肉」という表現で表しています。または、「肉の人」と言った場合、「肉欲に従って生きている人」というような意味ではなくて、例えばルカの18章に登場してくるファリサイ派の人、この人はパウロの目から見れば、回心後のパウロから見れば、「肉の人」であるわけです。だから、「神を必要としない生き方」あるいは、もう少し違った表現を使えば、「神の御旨を読み間違えて、自分が勝手に作りあげた神のイメージに従って生きている人」、これもまた「肉の人」であるわけです。
 
 
b)ガラテヤの信徒への手紙2章19-21節
 
19わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。20生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。
 
「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」とありますが、神との関わりに生きるために、律法との関わり合いを捨てました、と述べているわけです。さらに、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません........」とあり、すごいことが書かれていますけれども、いわば肉の人としてのパウロは、キリストと共に十字架で死んでいるのです。
 肉に対し、パウロが好んで使う言葉は、「霊」という言葉ですが、霊の人としてのパウロは、「神が御心のままに御子を示してくださった後のパウロ」といったらよろしいでしょうか、このパウロはもはや自分が生きているのではなくて、わたしのうちにキリストが生きているのであると、述べているのです。つまり、「肉の人」としてのパウロは消え去って、わたしのうちにキリストが生きている。キリストからの霊がパウロを動かす、という「霊の人」として生きているということです。
 
 20わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。21わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
 
つまり、肉はキリストの十字架と共に死んでいるわけですが、しかし、パウロは世にあって肉を持って生きている人でもあるのです。肉において生きているのは「わたしを愛し、わたしのために身を献げた神の子に対する信仰によるものです。」
 何年か前に、教会の結婚裁判に関係したことがありますが、教会法というものは、19節の「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」というパウロの考え方とどのように調整することができるかということになるでしょう。もし教会法が前面に出ますと、「律法に対しては律法によって死んだのです」とはとても言えないことです。ですから、教会法を先に立てるような教会は、パウロの目から見ればそれはキリストの教会ではないということになるわけでしょう。もちろんひとつの共同体として秩序が必要ですから、ルールが必要ですから、教会法が必要なわけですけれども、「神に対して生きる」、神との関わりの中で生きるということが、まず優先されなければならないということでしょうね。教会法をふりかざして、人を断罪して行くような姿勢というものは、決してキリストのものではないということなわけでしょう。
  
 
c)ガラテヤの信徒への手紙3章26―28節
 
26あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
  
「キリスト・イエスに結ばれて」と分かりやすく訳してありますが、これは原文では、「キリスト・イエスの中で」が直訳です。キリスト・イエスの中に入り込んでいるのです。入り込んでいるから神の子なのです。
 
27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
 

つまり、肉の人は死んで、わたしの内にキリストが生きている、とパウロは言っているのですが、これを別の表現で表すと、「キリストを着ている」という表現になるのです。昨日、民族衣装を買った方がいらっしゃると思いますけれど、おそらく民族衣装を着ると、少しは気分が変わるというか、自分自身が変わるということもあるのでしょうが、民族衣装どころではなくて、キリストを着ているということです。すっかり変えられているのだとパウロは主張しているわけです。

 
28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
 

パウロはこういった信念の中に福音を宣べ伝えていくわけです。

 今、フィリピの信徒への手紙3章、ガラテヤの信徒への手紙2章、3章を読んだわけですが、ここに、「キリストを着る」とか、「キリストがわたしのうちに生きている」という表現があることに注意していただきたいと思います。つまり、「肉の人」としてのわたしは消えてしまっているわけです。つまり、神との関わりに対して生きているわけです。「神に対して生きるために」という言葉も使っているわけですが、神との交わりの中に生きていますから、ですから、もはや肉の人としてのパウロは、パウロ自身にとっても、どうでもいい存在になっているのです。神がすべてになっていくわけです。
 その事を考えますと、回心の描写を非常に控えめにしていることの理由が分かると思います。つまり、ルカのような描写をしていきますと、非常に絵画的で分かり易いのですけれども、パウロがなぜそのような絵画的な表現を避けたかと言いますと、このような表現を使うと、自分自身を誇るような、まだ「肉の人」として生きてしまうような危険性をパウロが感じているということかもしれません。

「もうすでに神がわたしのうちに生きている。キリストが生きているのである、キリストを着ているのだ」と考えているわけですから、回心の出来事そのものも「神が御心のままに御子を示してくださった」としか書かない。そう書くことだけで十分であるということでしょう。わたしの心の変化がどうであったとか、そのときにわたしがどんな思いであるとか、そういった事柄を一切書かない。小説家であれば絶対そこを書くはずですけれども、彼は書きませんでした。大切なのは「神が何をしたかということ」なのだとパウロは考えているのだろうと思います。それではこれで終わりにします。

撮影 : 雨宮 慧

 ジェラシ 列柱通り
 ジェラシ 楕円広場

BGM:Nicht soll uns scheiden von der Liebe Gottes by BUXTEHUDE, Dietrich