シリア・ヨルダン旅行記

 

ミサ説教
2001.9.12(水)
於:ネボ山頂(フランシスコ修道会)
第1朗読 申命記34:1―12
福音書 ヨハネ3:3―21
 
出エジプトの出来事が起こったのは、紀元前13世紀の中ごろと考えられます。歴史的にはさまざまな問題がありますけれども、13世紀の中ごろモーセに導かれてエジプトを脱出し荒れ野に入って民は呟く、「飲む水がない」「食べるものがない」しかし、そのたびに神は民に丁寧につき合い、水を、そして、食べる物を与えた。
 シナイでは、神の顕現に接して、十戒を与えられ、神との間に深い交わり、契約と呼ばれる深い交わりに入った、ということが書かれ、そしてまた、荒れ野に出て行く。民はまた呟く。「我々は荒れ野で死ななければならないのか」。人間的な観点から見れば、ごくごく当然なこと、救いとはお腹を空かせることではないはずではないか。喉を渇らすことではないはずではないか。なぜ、このような苦しみが救いへとつながることになるのか。本当に我々はモーセを信じていていいのか。

 その時に、民数記(21:8以下)によりますと、神は怒りのあまりなのでしょうか、蛇を送ったと書かれています。「蛇に噛まれた者は死ぬ。しかし、神の指示に従って蛇を竿の上に掲げそれを仰ぎ見るといやされた」と書かれています。荒れ野は確かに食べる物も、飲む水もない過酷な場所。だからこそ、だれが真の命の与え手なのか、誰が支え手なのかを間違えることなく体験することのできた場所。だから、神は呟く民に対して丁寧につき合い、荒れ野を導く。確かに蛇を送るようなこともあったけれども、しかし、モーセの執り成しによって、その災いから逃れる道も準備してくださる。
 こうしてヨルダン川の東側に到着し、今、我々がいる場所に立つことになる。今日は、霞んでいて、緑がはっきりといたしませんけれども、赤茶けた荒れ野を40年にわたって歩いてきた民が、あの緑を見たときに、大きな喜びを感じたはずです。その時にモーセが約束の地を示しながら、そしてまた、過去の歩みを振り返りながら、我々はどのように生きるべきなのか、その神の言葉を告げた書、それが「申命記」だとされています。

 しかし、モーセは荒野でつぶやいた民の責任をとって、自らここで死ぬことになる。もちろん自殺ということではなく、ここで命が終わることになる。モーセ自身は約束の地に入ることはできない。
 モーセを通して神から掟が与えられた。現代の混迷した社会にあって、飛行機をハイジャックしてビルを壊すような、なんとも言い難い、ルールはどこにあるのか、と言いたくなるような混沌とした世界。日本の社会をつぶさに見れば、あそこにも無秩序、ここにも無秩序、それを示すことはごくごく簡単なこと。ひょっとしたならば、私たちは自分の足で歩けると考え始めたがゆえに、無秩序が始まったのかもしれない。絶対的な指示、秩序、それがなければ結局のところ、この様な混沌とした世界が現れるといってもよいのかもしれない。
 モーセを通して、神はご自身が望む秩序、正しい秩序を示してくださった。同時にまた、モーセは民の罪を背負ってここで亡くなることになる。それは今日の福音が述べているように、イエスの先駆けとなっていると言ってもよいかもしれません。神は、イエスを通して恵みを与えられた。なぜなら、律法だけであるなら、私たちがどんなに従いたい、神のみ旨を実現したい、と考えても、十分にそれを行う力が私たちにはない。
 従ってパウロが述べるように、律法が与えられれば与えられるほど、私たち自身は罪を自覚せざるをえない(ローマ3:20)。確かに隣人を愛した方がいい。できれば敵をも愛した方がいい。それはよくよく分かります。しかし、私たちの現実はそこからは遠く離れている。自分の弱さ、罪深さに苦しまざるをえない。
 神はそのような私たちのために、どのような道を用意したかというと、荒れ野で蛇が竿の上にあげられ、仰ぎ見る者はいやされた。それと同じように、独り子を十字架の上にさらしものにした。それを見上げるときに、私たちは罪を赦されているのであり、新しく創造された者にされたのであり、神の恵みの中に生き始めたことになる。

 肉の人から霊の人に新たに生まれ変わる。今日の福音に、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」とある。
 「風」と訳されている言葉と、「霊」と訳されている言葉は全く同じ言葉。霊とは我々がすぐ思い浮かべるような、諸々の霊、守護霊とか背後霊といったイメージではなくて、まずは風であり息吹、特に神から来る風。息吹は自然を創り変えるだけではなく、人間を造りかえることができる。神からの息吹にさらされた者は、造りかえられた者なのであり、霊と言われる新たな力のうちに生きている者となる。そこに神の恵みがあますことなく示されているのだ。律法がなければ無秩序の社会になる。しかし、律法があれば、罪が増し加わる。罪が増し加わるところ、神の恵みはなおさら、とパウロは語ります(ローマ5:20以下)。
 神の恵みによっていやされ、罪を赦され、新たな者にされて、キリストを着て、もはや私ではなく、私のうちにキリストが生きている、という生き方の中、霊の人と言われる生き方の中に入る。
 どうか私たちが、霊の人として神の指示を聞くことができますように。聞いて、信じて、神の霊に身をさらして、それを実現することができますように。
 私たちはその力をいただくためにわざわざピスガの頂き、そこにまで上ってまいりました。主が私たちの願いを聞き入れ、私たちを肉の人から霊の人へと生まれ変わらせてくださいますように。

撮影 : 雨宮 慧

 マケラス ヘロデ大王の城砦跡
 ネボ山山頂の記念モニュメント

BGM: O Come Lord Jesus by by BUXTEHUDE, Dietrich