シリア・ヨルダン旅行記

 

第五講話-I
2001.9.12(水)
ペトラに向かう車中にて
申命記という本 (I)
(I)申命記はどこで語られたとされているか
(a)申命記1章1-5節
  申命記は伝統的にモーセが作者というか、書いた人だということになっておりまして、そこからモーセ五書と言われていますけれど、もちろんモーセがすべてを語ったわけではなく、後の人がまとめています。
 申命記1章は、もちろん最初の章になりますが、1節から5節にこんなことが書かれています。
1aモーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた。
「これらの言葉」と言われているのは、この申命記に書かれている言葉、ほとんど掟になるわけですが、掟だけではなく、荒れ野の時代とはどういう時代であったのか、我々は何をしたのか、ということも書いてあります。その申命記の冒頭に「モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた」とあります。ですから、申命記に登場してくる「わたし」は神ではなく、「モーセ」になります。
1bそれは、ヨルダン川の東側にある荒れ野で、一方にパラン、他方にトフェル、ラバン、ハツェロト、ディ・ザハブがあるスフに近いアラバにおいてであった。
つまり、今、我々がいる、この辺りということになります。
5モーセは、ヨルダン川の東側にあるモアブ地方で、この律法の説き明かしに当たった。
これが1章の1節から5節になります。
 
 
(b)申命記32章48-52節
申命記の32章48節―52節には次のように述べられています。
48その同じ日に、主はモーセに仰せになった。
49「エリコの向かいにあるモアブ領のアバリム山地のネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの土地を見渡しなさい。」
朝ミサを挙げた山が「ネボ山」ということです。
50あなたは登って行くその山で死に、先祖の列に加えられる。兄弟アロンがホル山で死に、先祖の列に加えられたように。51あなたたちは、ツィンの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中でわたしに背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかったからである。
モーセにとってはずいぶん辛い言葉になるかと思います。背いたのはイスラエルのわけですけれども、「お前は十分に民を指導しなかったから、民が背いたのである。この最終的な責任はお前にある」ということでしょう。「イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかったからである。」イスラエルの罪を背負って、このネボ山で死んでいくということです。
52あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこに入ることはできない。
(c)申命記34章1-12節
今度は申命記34章の1節から12節です。この34章が申命記の1番最後の章になります。
1モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、2ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。
我々の目には、とてもこんなに広い場所を見ることはできませんが。たとえば、「ダン」というのは、ガリラヤ湖の北になります。「西の海」というのは地中海になります。だから、「約束の地全体を見た」ということになるわけです。
5主の僕モーセは、主の命令によって、モアブの地で死んだ。
と書かれています。
申命記は明らかに少なくとも5つぐらいの書き出しの言葉、導入の言葉があります。つまり、一時に編集されたものではなくて、いくつかの時代に編集されたものが後からつなぎ合わされて、重ねられているということになります。まとめると、「申命記はヨルダン川の東岸で約束の地を示しながら、モーセが民に与えた指示とされているが、与えられた掟は(内容から見て)明らかに定住生活をするようになってから作られたもの。したがって、フィクションであるが(モーセがヨルダン川東岸で語った言葉はフィクションではあるが)、実にすばらしい、意味のあるフィクション」となります。
 そのことを少しお話ししたいと思います。目の前には約束の地が広がっているわけです。我々も見ました。確かにエリコはよく見えました。そして、エリコのずっと奥にはエレサレムがあるはずです。我々の目にはとてもダンまでは見えませんでしたけれども、しかし、ここまで歩いてきた人たちにとっては、あの緑は実に、命そのものとして映ったであろうということは想像できましたね。

ですから目の前には素晴らしい土地が広がっているわけです。神が与えると誓ったその土地がこの目の前に広がっているのです。一方、今まで歩いてきた過去ですが、荒れ野です。少しお話ししましたけれども、紅海の出来事の後、海が分かれて乾いたところを、イスラエルの人たちが渡って来たわけです。意気揚々と荒れ野に出てくるわけです。3日間水がなかったと書かれております(出15:22)。3日目にようやく水にありつけたのですけれども、「苦くて飲むことができなかった」と書かれております。すべて民は呟いた。初めての呟きは3日目の呟きということになります。3日間も水を飲まずにいたわけで、ようやく水にありつけたと思ったら苦くてとても飲めなかったというのですから、呟かない方が不思議なわけです。
 呟くのは当たり前ですけれども、「呟く」という表現ですが、これは「buhn」という動詞が使われているのですが、この動詞は必ず主語は「民」になります。しかも旧約聖書の用例では、出エジプト記の15章終わりからですが、荒れ野のイスラエルを語る部分に、あるいは民数記の、同じように荒れ野のイスラエルを語る部分、ここでだけ使われている言葉です。荒れ野の呟きを表す言葉です。
 「呟く」と言いますと、我々は普通「ぶつぶつ不平を述べる」といったことを考えるわけですが、どうやら使い方から考えますと、民がモーセに向けて、あるいはモーセを遣わしたとされる神に向けて呟くという形をとっています。そうしますとこんな意味合いがありそうです。単に「ぶつぶつと不平を言った」ということだけではなくて、自分たちの考えている救いの概念とは全く違う現実が広がっていますので、そこで、この様な場所に連れて来た者は本当に指導者としてふさわしいのかと疑問に思うことです。だから、まずモーセとアロンに対して呟くのですが、次第に今度は神に対して呟くようになります。
 ですから、日本語の「呟く」とか「不平を言う」という言葉よりは、ずっと意味が強くて、「我々の指導者としてふさわしくない」といったニュアンスを持っています。逆に言いますとこういうことになります。「呟く」というのはどういうことかといいますと、自分たちの救いのイメージ、すなわち、救いとは水がたくさんあって食べることにも事欠かない、そういった場所が救いなのではないか。そういった自分たちが思い描くイメージから全く違った現実を目の当たりにしたときに、神様の導きという側にかけることができなくて、自分たちが勝手に(と言ったら言い過ぎかもしれませんが)思い描いている救いの概念に固執する態度と言っていいと思います。これが「呟き」です。

 ですから、この荒れ野の旅とは、実は、呟いた旅であったのです。つまり、自分たちの救いの概念からなかなか抜け出せないでいる。救いとはジャイアンツが勝って、うまい酒を飲んで、これでいいのだとするイメージから一歩も抜け切れないで、出られないでいる状態、これを人間の普通の状態といっていいわけです。ですから、「荒れ野」とは申命記自身が書いているのですけれど、「試みの場」であったと書かれています。何を試みているのかと言いますと、救いとは我々が勝手に思い描いたような場所とは必ずしも限らない。救いとは神のみ旨の実現なのであって、我々の夢をそのまま押し付けるわけにはいかないのだということです。それを体験する場所であったというふうに描かれていると言っていいかと思います。興味のある方はぜひ申命記の7章、8章を読んでいただくと、そう言った感じが分かっていただけるだろうと思います。
 話を戻します。申命記は、これは明らかに文学的なフィクションなんですが、ヨルダン川の東側で約束の地を示しながら、そして、荒れ野の旅を振り返りながら、あの地に入ったときには二度と呟くべきではない、神の言葉に従って生きるべきである、とモーセが語った神からの指示として捉えられているということです。

 そうしますと、どこがすばらしいフィクションなのかと言いますと、私はこう思います。賛成していただければとてもうれしいのですが。いつの時代にしても、ある意味でヨルダン川の東側にいるといっていいのだと思います。我々の過去には呟きの過去があります。呟きの程度は人さまざまでしょうけれども、時代によっても違うでしょうけれども、やはり人間ですから当然――、例えは3日間水がなくて、やっとありつけた水は苦くて飲めなかった。これを呟かないほうが不思議なくらいです。我々が普通に生きている限り、自分たちの夢とか願望とか、そういったものを大事に生きているわけですから、現実とぶつかった時に呟くということは、つまり、神様の導きを信じられなくなると言いましょうか、これが本当に神の導きなのか、と呟きたくなるというのは沢山あるのではないかと思います。
 だからその意味で呟いた過去をだれもが持っているということではないかと思います。しかし、そのたびに神はちょうど荒れ野のイスラエルを丁寧に導いたように、我々をも導いてくれ、ヨルダン川の東に到着している。つまり、我々の未来には約束の地が広がっているということです。ですから、モーセ五書が朗読されるときは、それがたとえ東京であれ、21世紀であれ、我々はヨルダン川の東側でそれを聞いているということと同じなのです。

撮影 : 雨宮 慧

 マケラス  放牧の風景
 死海とイスラエルを臨む

BGM:Ave Verum Corpus (K.618) by MOZART, Wolfgang Amadeus