シリア・ヨルダン旅行記

 

第五講話-II
2001.9.12(水)
ペトラに向かう車中にて
申命記という本(II)
(II)申命記が説く時間概念(「今日」を70回使う)
申命記には特徴的な時間概念があります。そのひとつは、「今日」という言葉です。申命記には「今日」という言葉がおよそ70回出てまいります。この「今日」というのは、申命記が朗読される「今日」でもあるわけです。つまり、モーセが民に語りかけている「今日」だけではなくて、神の言葉は生きていますから、それがたとえ21世紀であろうとも、申命記が朗読されるのはヨルダン川の東でモーセが語った「今日」と同じ「今日」となるということでしょう。そういった信仰、理解を持っているということです。
 申命記のもうひとつの特徴は、非常に面白い考え方だと思うのですが、ヘブライ語で「未来」という言葉は、背中、背後を表す言葉で作られています。それに対して、「過去」は目の前を表す言葉で表されると言って良いかと思います。つまり、申命記の特徴的な時間概念、それは旧約聖書全体と言って良いと思うのですが、ちょうどボートを漕ぐ人のようでして、未来に背中を向けているのです。背中の方向に進んで行くわけですから、これはとても怖いことになります。我々がボートを漕ぐ時はたびたび振り返ったり、あるいはボートの後ろに他人に乗ってもらって指示をしてもらう。そうでなければ怖くて漕げないということだと思いますが。ヘブライ人の時間概念から言いますと、過去を目の前に置いて、未来を背中の方側におく発想なのでしょう。古代人に広く見られる考え方のようですけれど、申命記は特にそれがはっきりと出てまいります。
 なぜ過去を目の前に置くのかといいますと、これはこういうふうに説明できるだろうと思います。未来はまだ起こっている出来事ではありませんから、つぶさに調べるということはできないわけです。ところが、過去、目の前に置いた過去ですが、これはすでに起こった出来事ですから、つぶさに調べるということが可能なわけです。そこで、つぶさに調べて何を学び取るかというと、だれが導いたかということを学び取るのです。目の前に置いた過去をつぶさに調べて、だれが導き手であったのかということを知るならば、ちょうどボートの後ろにその導き手を置いて漕いでいるようなものでこれは安全きわまりないということです。
 だから、未来はヘブライ人にとりましては探るべきものではなくて、待ち受けるべきものであると捉えられているのです。導き手を信じていますから、探るということは必要ではなく、待ち受けるということが可能だということです。
 だから、旧約聖書は一切の占いとか、未来を予告するような手段、神の言葉による予告ではなくて、占いとかなんとか道具を使ったもの、これを一切禁止いたしました。これを禁止するというのは未来に対する捉え方が間違っている、ひいては生きる姿勢が間違っているということを表しているわけです。
(a)申命記5章1-3節
それでは申命記の全部を読むことができないかもしれませんが、5章の1節以下3節までを、読んでゆきたいと思います。
1モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。
イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。2我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。3主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。4主は山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた。5わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた。あなたたちが火を恐れて山に登らなかったからである。
と書かれています。出エジプト記で言いますと、19章になりますが、シナイ山で神が顕現して、そして、十戒とか契約の書、これを渡したということが、19章以降に書かれているのですが、そのことを申命記はこういった表現で表しているということです。
 読んでいてすぐお分かりいただけたと思いますが、2節からですが、「我々の神、主はシナイで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」とあります(2節の「ホレブ」は、申命記独特の言い方で「シナイ山」を指します)。
 まず第一に奇妙なのは、確かに、「我々の旅は四十年であった」そして、「荒れ野で罪を犯した民が死んだ」と書かれてありますので、今、約束の地を目の前にして、ヨルダン川の東側に立っているイスラエルの民は、第二世代と言って良いのですけれども、しかし、生き残っている人もいるわけです。その人に向かって、「我々の先祖と結ばれたのではなくて、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」と述べているのです。

 つまり、生き残っている人もいるはずですから、「我々の先祖と結ばれた」というのはおかしいわけで、「我々と結ばれた」でいいはずです。「我々の先祖と結ばれたのではなくて」と否定形になっていますが、「我々の先祖」という表現を使わずに、「我々」でも十分にいいと思うのですけれども、「我々の先祖」という言葉を使っている、ということですね。
 これはもう明らかに、この申命記が約束の地を目の前にして、ヨルダン川の東側で書かれたものではなくて、ずっと後、紀元前8世紀、あるいは6世紀の可能性もあるわけですが、それぐらいになって初めて申命記がまとめられていますから、その人たちに語りかけるという気分がここでは顔をもたげて、「我々の先祖と結ばれたのではなくて、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」といった表現が出てくるということですね。
 つまり、神に対する信仰が非常に強いときに、強く生きているときに、いわゆる物理的な時間概念、昨日があって今日があって明日がある、といった物理的な時間概念を飛び越えてしまいまして、同じ神が語りかけているわけですから、先祖の時代を共有してしまっているということです。
 実はミサにおける時間概念ですが、これも全くそういった考えがなされていまして、我々のミサは十字架の出来事を頂点とする、世の人からいえば過去の出来事なのですが、その過去の出来事が今、ここに現成している時間として捕らえられています。こういった祭儀的な時間概念というものを申命記は用いているのです。
 だから「今日」という言葉は、紀元前13世紀ごろになると思いますが、「ヨルダン川の東の今日」だけではなく、申命記の言葉が朗読されるときは、常に「今日」になってゆくわけです。
 同じ神が語りかける「今日」であって、我々もまた荒れ野の民と同じように呟きながら、しかし導かれて行く。そして約束の地へと向かおうとしている。そういう我々に神が語りかけた指示として聴いてゆこうということなのです。これはほんとにすばらしいフィクション、捉え方だと私は思うのです。
(b)申命記7章9-11節
9あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、10御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。11あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。
11節の「今日わたしは・・・」の「わたし」はモーセのことです。これは度々お話ししていることですが、もう一度確認のために申し上げますと、新共同訳が「主」と訳している言葉は、例えばフランシスコ会訳の旧約聖書の詩編とかが「ヤーウェ」と訳している言葉と同じ言葉です。この「ヤーウェ」という言葉は、文脈から考えて、明らかにイスラエルを導いたイスラエルの神の呼び名になっています。子音字で表されているわけですが、母音記号は元来ふられていませんでした。子音の記号だけで表されているのですが、子音は「YHWH」の四つです。特に捕囚後、紀元前5世紀ぐらいから後になりますが、イスラエルはこの「YHWH」という、明らかに神の呼び名であるものが聖書に登場してきたときに、その言葉固有の発音は決してしませんで、「アドナイ=私の主人」と言い換えていました。
 だから、イエスもパウロもペトロも、「ヤーウェ」と発音した可能性は全く考えられません。アドナイと呼んでいたはずです。「私の主人」と言い換えていたわけです。だから、長い間にYHWHが本来どのように発音されていたかが分からなくなってしまいました。学者は分からないということを認めるのが嫌な動物ですから、そこで、YHWHが本来どう発音されていたかいろいろ調べまして、おそらく、「ヤーウェ」だろうということなのです。
 新共同訳の立場はつまりこうです。紀元前5世紀以降、イスラエルの人たちの伝統に従って、イエスもその伝統の中を生きたわけですけれども、発音するのは止めよう、イエスが、「私の主=アドナイ」と呼んでいたように、我々も「主」と呼ぶようにしようではないか、という立場なわけです。
 それに対してフランシスコ会訳のような立場は、祭儀はともかく、聖書本文としては学者が調べ上げてほぼ確実であろうとする呼び名を使った方が分かり易いではないか。そこで「ヤーウェ」という名を平気で使ったということです。
(c)申命記29章13-14節
13わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、14今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである。

これは、先程から何度も説明していますように、申命記における「今日」という言葉が、物理的な時間概念としての「今日」だけではなく、むしろ、いわば再帰的な時間、過去が現成する今、そういった「今日」を表しているということがとても良く分かる個所です。
 「わたしはあなたたちとだけ、契約を結ぶのではない。今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者(つまり、将来の世代ということでしょう)とも結ぶのである。」
 こういった考え方というのは、逆に言えば、過去は単なる過去なのではなくて、今、ここに現成する過去として捉えられているということだと思います。ですから、ヨルダン川の東側で申命記が語られたという一種の虚構、文学的な虚構を取っているのですが、これはいつの時代もが、どの人たちもが、「今日」になり得る言葉、これが申命記の言葉、とされていると言っていいと思います。

 

撮影 : 雨宮 慧

  メデバ 聖ジョージ教会 6世紀のモザイク床
  メデバからペトラへ 「王の道」

BGM:Concerto in Em (1st Mov't) by TELEMANN, Georg Philipp