シリア・ヨルダン旅行記

(最終回)

第五講話-III
2001.9.12(水)
ペトラに向かう車中にて
申命記という本(III)
(II)申命記が説く時間概念(後)
(a)申命記29章28節
28隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。
  というふうに訳されています。「隠されている事柄は主のもとに」、それに対して、啓示されたことは「我々と我々の子孫のもとに、とこしえに託されている」ということです。啓示、つまり隠されていたことがあらわにされるということです。つまり、神のみ旨は、啓示されるべき、現されるべきもの、覆いを取られるべきものなのですが、差し当たっては覆われているものとしてあるということです。
 ですから、これは是非、ヘブライ人への手紙1章1―2節を読んでいただいたらいいと思いますが。新約聖書はどういう立場に立っているかと言いますと、「隠されていたことが、イエス・キリストによってすべてあらわにされました。もう神のもとにも隠されている事柄は、何ひとつ残っていなくて、イエス・キリストによって神のみ旨はすっかり明らかにされました」というのが新約聖書の立場なわけです。

 新約聖書に、「終わりの時代」といった言葉が繰り返し出てまいります。あるいは「終末」といった考え方、これはもちろん、この世の終わりということですが、何が終わったとされているかと言いますと、申命記29章に書かれていますように、イスラエルは主のもとに託されていた事柄が、あらわにされるための場として歴史を捉えています。イエス・キリストによって、主のもとに隠されていた事柄、真理と言っていいのでしょう、神のみ旨、これはイエス・キリストによってすべて明らかにされたのだ。従って、歴史は終わったと言ってよい、という考え方なのです。
 昨日、今日、明日、という、あるいは、太陽が昇って、そして太陽が巡って、そして太陽が沈んでいく。こういう太陽の動きによって造り出される時間はとても終わっていません。まだ続いていくわけです。ですから、あと3日のあと、皆さんは日本にお帰りになるのですが、必ずそういう時が来るだろう、と信じて、我々は生きていくわけですが。こういった物理的な時間ということ、自然的な時間と言いますか、これは終わってはいないわけです。
 何が終わったのか、何が終わったから終わりの時代と言われるのかと言いますと、啓示、神のみ心があらわにされる啓示、これがイエス・キリストによってすっかりあらわにされたわけですから、その意味では歴史は終わったというふうにされているわけです。
(b)申命記4章1-40節
それでは最後の個所です。少しはしょって話したいと思いますが、申命記4章1節から40節まで。
1イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう。
新共同訳はこのように訳しているのですが、こういうふうに訳しますと、「今のわたしが教える掟と法」、これを忠実に行うことが、約束の地に入って命を得る道なのだ、という意味になりますね。このあとに、1節の逐語訳を書いておきましたので、それを見てください。
そして今 イスラエルよ 聞きなさい 掟と法を
私が あなたたちに 行うようにと 教える ところの
あなたたちが生き 入り 獲得する ようにと・・・・・
「聞きなさい」と命令形が使われているのですが、新共同訳は、それを訳しませんでした。何を聞くのかと言いますと、確かに、「掟と法を聞きなさい」。その後に関係代名詞が置かれていまして、掟と法がどういった類のものであるかが語られていきます。「私があなたたちに行うようにと教えるところの掟と法」とつながってまいります。
 そしてそのあとに、目的が書かれていまして、「あなたが生き、入り、獲得するようにと教える」というように、「教える」にかかるのでしょうか、それとも「行う」にかかるのでしょうか、ちょっとそのかかり具合が分かりにくいのですが、「教える」にかけるのがいいでしょう。
 いずれにいたしましても、新共同訳に、私は不満なのですが、その不満は、「忠実に行いなさい」と訳している点です。確かに「行うようにと私が教える法と掟を聞きなさい」と言うのですから、行わなければならないのは、それはそうなのですが、行うよりも前に聞かなければならないわけです。
 この「聞く」という表現ですが、これは聖書にとりまして実に重要でありまして、「聞く」を訳し落としてしまったということは何とも残念に思うのです。聞かずに行うことはできません。聞いて、そして、だれが語った言葉なのか、そして、それが何のために語られた言葉なのか、それを理解して行う、ということ。「聞く」ということはそういったことを含んでいるわけです。
 それはそれだけにしておきたいと思います。2節に移ります。
2あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい。
聖書を読んでいますと、何かを加えたくなったり、あるいは聞きたくない、減らしてしまいたくなるような言葉がたくさんあります。たとえば、「教会の祈り」からは、敵に対する報復の祈りはほとんど消されています。確かに、「朝の祈り」で敵に対する報復の祈りを唱えるということは、何ともそぐわないと考えれば、取ってしまってもいいと思うのですが、しかしですね、聖書にとって、報復の祈りというものがどいう貴重な意味を持っていたかということが分かりますと、取ってしまおうということは神の言葉を自分たちの言葉にすり替えていく態度になります。自分たちの理解の地平に神の言葉を引きずり降ろしてくる態度になります。これは、神の言葉を聞いたことにも、神の言葉を唱えたことにもならないと私は思うのです。申命記ははっきりと、「何一つ加えることも、減らすこともしてはならない」というふうに厳命しているわけです。
 5節です。
5見よ、わたしがわたしの神、主から命じられたとおり、あなたたちに掟と法を教えたのは、あなたたちがこれから入って行って得る土地でそれを行うためである。
1節から2節にかけてでは、掟を行うことが、約束の地に入るための条件のように読めるとも言えるのですが、5節では、はっきりと、入って行くことはもう既成の事実、入って行ったあとに、この掟と法を行うのだとされているわけです。つまり、掟の実行が約束の地に入るための、救いに与るための条件とされているのではなく、むしろ、入ることはもう既成の事実、確実な出来事なわけです。「入った後これを守れ」と5節では述べているのです。だから、申命記には、二つの表現の仕方があるということです。一つは、確かに「掟を行えば、約束の地に入る」という語り方をしている部分があります。もう一つは、今、見たように、「入って行った後、行うようにと、掟と法が語られた」というふうに述べられている部分があります。
 おそらく、救いと掟の関係は、どちらからも見ることができるものとして捉えられているのだと思います。たとえて言えば、らせん階段を上がるように、と言った方が良いかもしれません。らせん階段ですから、上から見ますと、同じ円周上をぐるぐる歩いていると言っても良いわけです。そうしますと、さっきは掟を行った、ということが約束の地に入るということをもたらしたと見ることができますが、次の段階になりますと、「約束の地に入る」ということは、もう既成の事実として、その入ったあとには、この掟を守れ、というふうに読むこともできます。つまり、掟の実行と救いの成就はらせん階段を上がるように、次々と高みへと上って行く道なのだと説明したらいいかなあと思います。
 6節です。
6あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言うであろう。7いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。8またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか。

というふうに書かれているわけです。
 それで今日、お話しした部分は、実は申命記の枠になっている部分でして、12章から掟の部分が入ってまいります。細かい掟が書かれています。我々から言えば刑法に当たるようなもの、民法に当たるようなもの、そういったものが12章以降ずっと書かれてまいります。ですから、12章以降の具体的な掟を読むときには、今日お話ししたような枠組み、申命記では掟がどう捉えられているかということを念頭に置きながら読んで行かなければならないということになるわけです。
 もう一つだけ付け加えて終わりにさせていただきたいと思いますが、実は、旧約聖書の中には、我々が「律法」という言葉で表すような、掟を一括りにするような言葉がございません。「律法」という言葉を使ってみたり、「掟」「法」「戒め」「命令」とか、「言葉」とか、様々な言葉を使って、神の指示が語られてまいります。こういうふうに決まった用語がないということは、逆に言いますと、神の指示がいかに生きたものとして、具体的な響きを持ったものとして捉えられているかということを表しているのだと思います。

いわば、「律法」というような、我々が考えるような、「律法」というひとつの用語と言いますか、神の指示を表す決まりきった表現、これを持つようになりますと、神の言葉はいわば硬直し始めたと考えているかもしれません。肉声としてではなく、文字として受け取られ始めるということなのかもしれませんね。
 ちなみに、「トーラー」という言葉、「律法」と訳されている言葉ですが、これは我々が「律法」という言葉から思い浮かべるイメージとはかなり違った言葉です。まず、語源から説明しますと、「トーラー」という言葉は、「ヤーラー」という動詞からきておりまして、「ヤーラー」という言葉はいろいろな意味があるのですが、基本的には、「弓矢を打つ」「弓を打つ」という意味の言葉です。そこから派生した名詞形が「トーラー」です。ですから、神がこの方向に向かうべきだと我々のために放った弓矢、方向指示器、これを「トーラー」と呼んでいると言っていいと思います。歩むべき方向の指示なわけですから、決して束縛ではないわけです。神の指示を束縛として受け取ってしまうところに、人間の罪があるというふうに聖書は書いていると考えていいと思います。
 それでは、これで終わりにいたします。

撮影 : 雨宮 慧

  メデバからペトラへ 「王の道」
  ペトラの夕陽

BGM:Pelleas & Mellisande (Op.80) by FAURE, Gabriel