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B・待降・2
metanoeoo
メタノエオー
悔い改める
(1)「後悔する、悔い改める、回心する」
(a)「粗布をまとい灰をかぶって悔い改める」
▼マタ一一21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって【悔い改めた】にちがいない。
▼ルカ一〇13 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って【悔い改めた】にちがいない。
(b)洗者ヨハネやイエスは、神の国に達するために必要な条件として、「悔い改めよ」と述べる
▼マタ三2 「【悔い改めよ】。天の国は近づいた」と言った。
▼マタ四17 そのときから、イエスは、「【悔い改めよ】。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
▼マコ一15 「時は満ち、神の国は近づいた。【悔い改め】て福音を信じ【なさい】」と言われた。
(c)弟子たちの宣教の主題も「悔い改めよ」
▼マコ六12 十二人は出かけて行って、【悔い改めさせる】ために宣教した。
▼使一七30 さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆【悔い改めるように】と、命じておられます。
▼使二六20 ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、【悔い改め】て神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをす【るように】と伝えました。
(d)悔い改めなければ滅びに至る
▼ルカ一三3 決してそうではない。言っておくが、【あなたがたも悔い改めな】ければ、皆同じように滅びる。
▼ルカ一三5 決してそうではない。言っておくが、【あなたがたも悔い改め】【な】ければ、皆同じように滅びる。」
▼マタ一一20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が【悔い改めなかった】ので、叱り始められた。
(e)悔い改めれば救われる
▼マタ一二41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて【悔い改めた】からである。ここに、ヨナにまさるものがある。
▼ルカ一一32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて【悔い改めた】からである。ここに、ヨナにまさるものがある。」
(▼ルカ一五7) 言っておくが、このように、【悔い改める】一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
(▼ルカ一五10) 言っておくが、このように、一人の罪人が【悔い改めれば】、神の天使たちの間に喜びがある。」
直訳−「悔い改める[一人の罪人のために]」
▼ルカ一六30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、【悔い改めるでしょう】。』
(f)悔い改める理由や根拠を示す前置詞(エイス・エピ・ディア)を伴って
▼マタ一二41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて【悔い改めた】からである。ここに、ヨナにまさるものがある。
▼ルカ一一32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて【悔い改めた】からである。ここに、ヨナにまさるものがある。」
▼2コリ一二21 再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを【悔い改めずにいるのを】、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか。
▼1クレメンス七7
▼ポリュカルポスの殉教七3
▼ヘルマスの牧者第三の幻七2
(g)悔い改めて、離れ去ることになる状態が前置詞(アポやエク)によって示され、「悔い改めて何から立ち去る」
▼使八22 この悪事を【悔い改め】、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。
▼1クレメンス八3
▼黙二21 わたしは【悔い改める】機会を与えたが、この女はみだらな行いを【悔い改め】ようとしない。
▼黙二22 見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを【悔い改めない】なら、ひどい苦しみに遭わせよう。
▼黙九20 これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は、自分の手で造ったものについて【悔い改めず】、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。
▼黙一六11 苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜し、その行いを【悔い改めようとはしなかった。】
(h)不定法と共に、「悔い改めて立ち帰る」
▼使二六20
▼黙一六9 人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜した。そして、【悔い改め】て神の栄光をたたえることをし【なかった】。
(i)前置詞エイスと共に、「悔い改めて、一致に向かう」
▼イグナティオスの手紙フィラデルフィア八1b
(▼イグナティオスの手紙スミルナへ九1)
(j)前置詞エイスと共に、「(キリストの)苦難に関して悔い改める(仮現論者はこれを否定する)」
▼イグナティオスの手紙スミルナへ五3
(k)接続詞ホティが続いて、「…のゆえに悔い改める」あるいは、「…ということを悔い改める」
▼ヘルマスの牧者第十のいましめ二3
(l)さまざまな副詞(疑うことなく・遅く・たびたび・直ちに)と共に。
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ一〇3
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ七3
▼ヘルマスの牧者第十一のいましめ四
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ七5
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ八3a
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ五b
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ一〇1
▼ヘルマスの牧者第九のたとえ一九2
▼ヘルマスの牧者第九のたとえ二一4
▼ヘルマスの牧者第九のたとえ二三2c
(m)前置詞エク〈から〉と共に、「心の底から悔い改める」
▼2クレメンス八2
▼2クレメンス一七1
▼2クレメンス一九1
▼ヘルマスの牧者第一の幻三2
▼ヘルマスの牧者第二の幻二4
▼ヘルマスの牧者第三の幻一三4
▼ヘルマスの牧者第四の幻二5
▼ヘルマスの牧者第五の戒め一7
▼ヘルマスの牧者第十二の戒め六1
▼ヘルマスの牧者第七のたとえ四
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ一一3
(o)前置詞エクと共に、「誠実に悔い改める」
▼2クレメンス九8
(p)他の語や前置詞句を伴わずに、単独で使われる。
▼ルカ一七3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、【悔い改め】れば、赦してやりなさい。
▼ルカ一七4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『【悔い改めます】』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
▼使二38 すると、ペトロは彼らに言った。「【悔い改めなさい】。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
▼使三19 だから、自分の罪が消し去られるように、【悔い改め】て立ち帰り【なさい】。
▼黙二5 だから、どこから落ちたかを思い出し、【悔い改め】て初めのころの行いに立ち戻れ。もし【悔い改めな】ければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。
▼黙二16 だから、【悔い改めよ】。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。
▼黙二21 わたしは【悔い改める】機会を与えたが、この女はみだらな行いを【悔い改め】ようとしない。
▼黙三3 だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ【悔い改めよ】。もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。
▼黙三19 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。【悔い改めよ】。
▼2クレメンス八1
▼2クレメンス八3
▼2クレメンス一三1
▼2クレメンス一五1
▼2クレメンス一六1
▼イグナティオスの手紙フィラデルフィアへ三2
▼イグナティオスの手紙フィラデルフィアへ八1a
▼イグナティオスの手紙スミルナへ四1
▼ヘルマスの牧者第一の幻一9
▼ヘルマスの牧者第三の幻三2
▼ヘルマスの牧者第三の幻五5
▼ヘルマスの牧者第三の幻一三4a
▼ヘルマスの牧者第五の幻七
▼ヘルマスの牧者第四のいましめ一5
▼ヘルマスの牧者第四のいましめ七以下
▼ヘルマスの牧者第四のいましめ二2
▼ヘルマスの牧者第四のいましめ三6
▼ヘルマスの牧者第九のいましめ六
▼ヘルマスの牧者第十のいましめ二4
▼ヘルマスの牧者第十二のいましめ三3
▼ヘルマスの牧者第四のたとえ四
▼ヘルマスの牧者第六のたとえ一3以下
▼ヘルマスの牧者第六のたとえ三6
▼ヘルマスの牧者第六のたとえ五7
▼ヘルマスの牧者第七のたとえ二4以下
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ六1以下
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ七2以下
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ八2
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ八5a
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ九2
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ九4
▼ヘルマスの牧者第八のたとえ一一1以下
▼ヘルマスの牧者第九のたとえ一四1以下
▼ヘルマスの牧者第九のたとえ二〇4
▼ヘルマスの牧者第九のたとえ二二3以下
▼ヘルマスの牧者第九のたとえ二三2
▼ヘルマスの牧者第九のたとえ二三5
▼ヘルマスの牧者第九のたとえ二六6
▼ヘルマスの牧者第九のたとえ二六8
▼ディダケー一〇6
▼ディダケー一五3
(p)キリスト教から離れるという意味で「悔い改める」が使われる
▼ポリュカルポスの殉教九2
▼ポリュカルポスの殉教一一1以下
▼パウロ行伝一17
(2)「自分の考えを変える」
▼ヘルマスの牧者第三の幻七3
▼ヘルマスの牧者第十一の戒め四
<解説>「回心・悔い改め(メタノイア)」
(関連語 「悔い改める(メタノエオー)」)
(1)用例
メタノイア/メタノエオーは主に共観福音書で用いられるが(マコ一/二回、マタ二/五回)、特にルカに用例が多い(五/九回、使六/五回)。書簡の中で用いられることは少なく(パウロ書簡三/一回〔アメタノエートス<悔い改めない>が一回〕、その他は、メタノイアが牧会書簡一回、ヘブ三回、2ペト一回のみ)、ヨハネの手紙では全く用いられない。動詞メタノエオーは黙示録の中でよく用いられる(十一回)。
(2)新約聖書以外の文献における用法
ギリシャ古典におけるメタノイア、メタノエオーの意味は、「(良い方へ、あるいは悪い方へ心を)変える」。倫理的意味で使われる場合も、その時々の気持ちの変化のみを表し、「生き方そのものを変える」という意味は持たない。新約聖書におけるメタノイア/メタノエオーの用法の理解にとって重要なのは、旧約聖書で用いられるヘブライ語の動詞シューブ<悔い改める・本心に立ち帰る>の語である。ただし七十人訳は、シューブの訳語としてエピストレフォー(またはアポストレフォー)を用い、メタノエオーはニハム<悔いる>の訳語として用いる。
シューブを特別な宗教的意味で用いたのは預言者である。シューブとは、「ヤーウェとの元の関係に立ち帰る」ことを表す。アモス、ホセア、イザヤは「ヤーウェに立ち帰る」ことは、生き方そのものの転換を伴うものだと述べ、エレミヤやエゼキエルは、「罪から離れること」を勧める。
新約聖書時代のユダヤ教は、「律法への回帰」の意味で悔い改めを説いたが、基本的に神への回心は恵みであると考える(知一一23、一二10、19、マナセ8)。クムラン宗団は自分たちを「イスラエルの回心者」と呼ぶ(『ダマスコ文書』四2)。
(3)洗礼者ヨハネ
共観福音書のメタノイアの八用例の内、五つは洗礼者ヨハネについて述べた箇所である(メタノエオーを洗礼者ヨハネに用いるのは、マタ三2の一回)。ヨハネについての記事の原形を示す記事は、マタイ三7−12(Q資料)である。
ヨハネは「悔い改め」を説いた。悔い改めとは、まず罪から離れることである(マコ一4以下)。イスラエルが回心しなければならないのは、神の怒りが間近に迫っているからである(マタ三10並行)。ヨハネは、神の怒りが近いことを確信していた(マタ三7b並行)。ヨハネは、イスラエルが救いを約束された民だなどという考えは完全に誤りだと言う(マタ三9並行)。だから、「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタ三8並行)。
ただし、ここで言う「悔い改めの実」とは、律法の遵守のことではない(ルカ三10−14)。律法は救いの条件であるという考えは否定されるからである(マタ三9)。悔い改めの実とは、ヨハネが授ける水による洗礼を指す。ヨハネが水で洗礼を授けるのに対し、「来るべき方」は火の洗礼(裁き)を授ける。
ゆえに回心とは、神がイスラエルに怒りを表しても当然だということをはっきり認めること、イスラエルの罪があまりにもひどいために、従来の救いのための手段では救われる見込みがないことをはっきり告白することである。回心を表す手段として、「悔い改めの洗礼」が行われる(マコ一4、ルカ三3)。回心とは、救われるかどうかを神に委ねるという、救われるための最終的な手段である。しかし、ヨハネは救われた状態について積極的な言葉では述べなかった(マタ三10b、12c)。
(4)イエス
ルカの編集句を除いて(ルカ五32、一五7、10、一六30?、一七3以下?、二四47、またマコ六12、マタ一一20参照)、イエスが回心の説教をしたとはほとんど書かれていない。イエスがマルコ一15のように、「神の国は近づいた」ということと、「悔い改めよ」ということを同時に述べたかどうかは、定かでない(この箇所に対して、Q資料によるルカ十9並行参照)。しかし、ルカ十13、一一32並行、一三3、5の言葉は、イエスに直接さかのぼると考えられる。いずれにせよ、イエスは、洗礼者ヨハネほど「メタノイア(悔い改め)」を重要な概念と考えなかった。
イエスも洗礼者ヨハネと同じように、すべての人が悔い改めるよう求めた。悔い改めなければ、裁きを受ける(ルカ一三3、5)。しかしヨハネと違って、イエスは「裁きが絶対に下る」とは言わず、「もし・・・なら裁きが下る」という条件付きの言い方をする。イエスは、悔い改めるなら、自分に注目するようにと言う(ルカ十13、一一32)。ヨハネは回心とは過去の伝統に帰ることではなく、神がこれから行おうとしている裁きに目を向けることだと述べた。これに対して、イエスは、まず神の国が到来し、罪が赦されると説き、こうした救いの恵みにもとづいて生きることを回心と考える。従って、イエスは、神が回心を引き起こすと言うだけでなく(上述(2))、回心に先立ってすでに赦しが与えられているという著しい主張を述べたのである。
(5)語録(Q)資料
洗礼者ヨハネの裁きと悔い改めの説教を含む語録資料は(ルカ三8並行、マタ三8)は、イエスが「来るべき方」だとする。回心とは、過去の罪を離れるだけでなく、イエスをメシアだと認めることである。Q教団が裁きを強調するのは、彼らが宣教していた、イエスがメシアであるという使信がイスラエルで受け入れられなかったためであろう。ルカ十13(並行マタ一一21)、ルカ一一32(並行マタ一二41)は語録資料による挿入。
(6)マルコ
マルコ一15も、神の国が到来したことに対する応答として、悔い改めを行わなければならないと言う。マルコが付け加えた新しい要素は、「福音への信仰」である。キリスト教信仰の成立に伴い、回心は「改宗」の意味を持つようになる(マコ六12の編集句参照)。従ってマルコは、洗礼者ヨハネを「道を準備する者」と呼び、その説教から「裁き」の告知を取り除く。マルコ一4の「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」は、イエスを準備する清めの意味で考えられている。
(7)マタイ
マタイ三11(編集句)も、「悔い改めに導くため」ヨハネが水による洗礼を授けたと言う。しかし、水による洗礼は、罪を赦すことができない(マコ一4と違って)。マタイによれば、罪を赦すことのできるのはイエスの死である(二六28)。それ以外の点では、マタイは洗礼者ヨハネの姿をイエスと同じように描く。ヨハネもイエスも、人々の前に現れて同じ呼びかけを行う(三2、四17)。マタイはマルコ一15よりも、切迫した終わりの時を前にして人間がとる行動の責任の大きさを強調する(四17)。だからファリサイ派やサドカイ派の人々に対して「悔い改めにふさわしい実を結べ」という最後通牒のような警告が述べられる(マタ三8)。悔い改めない人々の例にも、しるしを求めるファリサイ派(マタ一二38−42)や、イエスが奇跡を行っても彼をメシアとして認めない人々が挙げられる(マタ一一20〔編集句〕、21、一一2、19参照)。
(8)ルカ・使徒言行録
ルカは、おそらくギリシャ古典における用法の影響を受けて、メタノイアを、「心を改めて改宗する」という倫理的な意味で用いる(使二六20、ルカ三7参照)。それは、「悔い改めにふさわしい実」の「実」をルカが複数形に直し(ルカ三8)、それをヨハネの説教で具体的な「生き方」として語らせていることや(ルカ三10−14)、イエスが「徴税人や罪人を招いて悔い改めさせる」ことからも明らかである(ルカ五32、一五7、10)。もちろん、徴税人や罪人は、罪に陥った状態の一例として挙げられているにすぎない(ルカ一三3、5)。ルカは悔い改める必要のない義人よりも、悔い改める罪人を評価する(ルカ一五7)。罪深い生き方をやめることができるのは、イエスの到来によって罪の赦しと救いが与えられたからである(ルカ四16−21、五23、七47以下)。
イエスの苦難と復活の後、教会は新たな罪の赦しを得させる悔い改めをエルサレムから始めて、すべての民に宣べ伝える(ルカ二四47、使五31)。使徒たちはこの悔い改めをまずイスラエルに告げ(使二38、三19)、ついで、異邦人にも宣べ伝えた(使一七30、二〇21、二六20)。悔い改めとは、イエスを通して示された神の恵みにより、これまでの無知(アグノイア)から離れることであり、積極的に言えば、神に立ち帰り、イエスを信じることである(使一九4、二〇21、二六18、20)。
(9)黙示録
動詞メタノエオー<悔い改める>は、黙示録の中で、「悔い改めなければ裁きが与えられる」という、七つの教会にあてた手紙の警告の言葉として用いられる(二5、一六21、22、三3、19)。この回心を求める言葉は、定式化した回心の祈りとして使われていたものらしい。ここで言う「悔い改める」とは、改宗のことではなく、キリスト者が「初めのころの行いに立ち戻ること」(二4以下、三15以下参照。「行い(エルガ)」の語と共に使われる箇所として、二22以下、三2以下、九20、一六11参照)。「悔い改めよ」は、ニコライ派とその教えを奉じる者に対する警告の言葉としても用いられる(二14−16、20)。しかし、彼らには悔い改める猶予が与えられている(二21−23)。黙示録が教会外で人間が悔い改める見込みがないと考えていることは注目される(九20、21、一六9、11)。悔い改めを行うのは、終わりの時が近いからである(二5、16、三3b参照)。裁きは悔い改めない場合にのみ与えられる(二5b、16、22、三3)。黙示録の重点は救いにあり、警告を述べても、すぐその後に「勝利を得る者」に与えられる救いが述べられる。
〔EWNTによる〕