A年待降節第1主日
(剣を打ち直して鋤とし主イエス・キリストを身にまとい目を覚ましていなさい)

第一朗読
イザヤ書 2章1―5節

1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
2 終わりの日に
   主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
   どの峰よりも高くそびえる。
   国々はこぞって大河のようにそこに向かい
3 多くの民が来て言う。
   「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
   主はわたしたちに道を示される。
   わたしたちはその道を歩もう」と。
   主の教えはシオンから
   御言葉はエルサレムから出る。
4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
   彼らは剣を打ち直して鋤とし
   槍を打ち直して鎌とする。
   国は国に向かって剣を上げず
   もはや戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
第一朗読 
イザヤ書 2章1―5節

打ち直す・カータト 

この語はまず@「打つ・細かく砕く」ことを表します。罪に陥ったイスラエルは、陶器師の壺が「砕かれる」ように粉砕されます(イザ30:14)。モーセは民が造った子牛を取り上げて粉々に「砕いて」塵としてしまいました(申9:21)。神にささげるいけにえは、その睾丸が押しつぶされたり「破れたり」している動物ではいけないとされています(レビ22:24)。神はダビデを苦しめる者を「滅ぼし」、彼を憎む者を倒します(詩89:24)。
 次にA「たたく・打ち直す」ことを表します。諸国の民は鋤を剣に、鎌を槍に「打ち直し」て集まってきます(ヨエ4:10)。
 以上の用例はカル形(語根にもっとも近い動詞形)ですが、ピエル形(強意形)でも同じような意味で使われます。ヒゼキヤ王はモーセの造った青銅の蛇を「打ち砕いて」、宗教改革を断行しました(王下18:4)。また、今週の朗読が述べるように、イザヤやミカは、ヨエルとは逆に、剣を「打ち直して」鋤とし、槍を「打ち直して」鎌とする、平和な時代が到来すると述べています。
 

 

第二朗読
ローマの信徒への手紙 13章11―14a節

11 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。
12 は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。
13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、
14a 主イエス・キリストを身にまといなさい。
第二朗読
ローマの信徒への手紙 13章11―14a節
 
夜・ニュクス
     
 この語は、文字どおりには「」を意味しますが、新約聖書では、多くの場合、何らかの神学的な意味合いを込めて用いられています。
 まず、「夜」は神が好んで救いの力を発揮する時間です。イエスの誕生を天使が告げるのは「夜」であり(ルカ2:8)、十人のおとめが待つ花婿は、真「夜」中に到着します(マタ二五6)。使徒言行録で特に、この意味での用例が多く、神の天使が牢の戸を開けるのも(使5:19)、サウロがユダヤ人から逃れて町を脱出するのも(使9:24―25)、「夜」です。
 また、「夜」は終末論的な裁きと関係する時間です。倉に作物を蓄えた金持ちは「(今)夜」命を取られ(ルカ12:20)、イエスを裏切るユダは「夜」出て行きました(ヨハ13:30)。
 さらに、「夜」は信仰の決断を求める時間であり(マタ2:14、26:31、34、ヨハ3:2、19:39)、神が求める時が満ちることと関係しています(マタ4:2、12:40、ルカ2:37)。
 今週の朗読では、「夜」は現在の悪の時代を指しており、救いの時の到来によって、過ぎ去ってゆくものを表します。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 24章37―44節

37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
今週の福音
マタイによる福音書 24章37―44節

到来・パルーシアー
    
 この語は接頭辞パラ〈そばに〉と動詞エイミ〈ある・いる〉とによる合成動詞パレイミ〈そこにいる・居合わせている・来ている〉から派生した名詞形です。
まず@「(ある場所やある人物のもとに)居合わせていること」を意味します。コリントやフィリピの人々のもとに「居合わせたこと」のあるパウロは(2コリ10:10、フィリ2:12)、同労者が自分のもとに「居合わせていること」を喜びます(1コリ16:17)。
 次にA「(その場所に居合わせるための最初の段階としての)到来・出現」を表します。聖書以外のギリシア語では王や皇帝の訪問や神の顕現に使われましたが、新約聖書ではほとんどはキリストの「来臨」に用いられます。自分が生きている間に主は「来る」と述べるパウロは(1テサ4:15)、そのときには、キリストに属して死んだ者が復活すると教えます(1コリ15:23)。しかし、主の来臨の前には、神に逆らう不法の者が現れ(2テサ2:1)、来臨の約束を嘲笑う者もいます(2ペト3:4)。
 

 

 

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