A年待降節第3主日
(弱った手に力を込め大地の尊い実りを待ちわたしにつまずかない人は幸い)

第一朗読
イザヤ書 35章1―6a、10節

1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
   砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
   野ばらの花を一面に咲かせよ。
2 花を咲かせ
   大いに喜んで、声をあげよ。
   砂漠はレバノンの栄光を与えられ
   カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
   人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
弱った手に力を込め
   よろめく膝を強くせよ。
4 心おののく人々に言え。
   「雄々しくあれ、恐れるな。
   見よ、あなたたちの神を。
   敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
   神は来て、あなたたちを救われる。」
5 そのとき、見えない人の目が開き
   聞こえない人の耳が開く。
6a そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
    口の利けなかった人が喜び歌う。
10 主に贖われた人々は帰って来る。
     とこしえの喜びを先頭に立てて
     喜び歌いつつシオンに帰り着く。
     喜びと楽しみが彼らを迎え
     嘆きと悲しみは逃げ去る。
第一朗読 
イザヤ書 35章1―6a、10節

  贖う・パーダー

 この語はもともとは商業用語であり、「代価を支払って、あるものの所有権が移行する」ことを表します。主人が女奴隷を自分のものと定めながら、気に入らなくなったら、彼女は「買い戻される」ことが許されます(出21:8)。
 しかし、出エジプトの出来事と結びつくことによって、宗教的な意味合いをもつことになります。エジプトからの脱出は、神がエジプト人の初子や彼らの家畜の初子をことごとく撃つことによって行われたので、イスラエルも人と家畜の初子を神にささげますが、「贖う」ことによって自分のものとすることができます(出13:15、民18:15―17)。
 さらに進んで、神によるエジプトからの解放がこの語で表されます。神は民への愛のゆえに、奴隷の家から「救い出された」のです(申7:8、9:26、15:15など)。また、この用法はウルから呼び出されたアブラハムにも(イザ29:22)、捕囚からの解放にも(エレ31:11)、さらに一般的に命の危険や敵による圧迫からの救出にも使われます(サム下4:9、詩25:22、49:16、エレ15:21、詩119:134)。
 

 

第二朗読
ヤコブの手紙 5章7―10節

7 兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。
8 あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。
9 兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。
10 兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。
第二朗読 
ヤコブの手紙 5章7―10節

  裁く方・クリテース

 この語は動詞クリーノー〈裁く〉の名詞形であり、旧約の王政以前の指導者である「裁く者(士師)」を指す用例(使13:20)を除くと、次のように用いられます。
 まず、法制上の「裁判官」を表します。人間社会で紛争を処理する「裁判官」を意味する用例は福音書と使徒言行録に限られていますが(ルカ12:14、58、使24:10)、神やキリストにも用いられます。律法を定め「裁きを行う方」である神は(ヤコ4:12)、かの日に義の栄冠を授ける、正しい「審判者」であり(2テモ4:8)、イエスを生きている者と死んだ者との「審判者」として定めました(使10:42)。
 次に、一般に何かに判定を下す「審判者」を表します。貧しい人を差別するキリスト者は誤った考えに基づいて「判断を下した」者であり、自分の仲間を裁くキリスト者は律法の悪口を言う、律法の「裁き手」です(ヤコ2:4、4:11)。
 今週の朗読は、イエスは終わりの日に「裁き手」として到来すると述べています。正しい裁きは人からではなく、神から来ることを教えるためです。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 11章2―11節

2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。」
7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。
11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
今週の福音 
マタイによる福音書 11章2―11節

 福音を告げ知らせる・エウアンゲリゾー

 この語は基本的には「戦勝などさまざまな良い知らせを伝える」ことを意味しますが、新約聖書では「救いの到来の知らせ」という側面に集中した意味合いで使われます。
 パウロは初代教会の信仰告白を用いて、福音の内容を教え、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れた」(1コリ15:3b―5)とか、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(ロマ一3b―4a)と述べています。
 今週の福音では、病者がいやされ、死者が復活するという出来事は、「貧しい人は福音を告げ知らされている」(イザ61:1を参照)ということであり、それがイエスが「来るべき方」であることのしるしだと説かれています。

 

 

今週の朗読のキーワードに戻る