A年年間第2主日
イスラエルを集めるために神の御心によって召され世の罪を取り除く神の小羊

第一朗読
イザヤ書 49章3、5―6節

3 わたしに言われた
   あなたはわたしの僕、イスラエル
   あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
5 主の御目にわたしは重んじられている。
   わたしの神こそ、わたしの力。
   今や、主は言われる。
   ヤコブを御もとに立ち帰らせ
   イスラエルを集めるために
   母のにあったわたしを
   御自分の僕として形づくられた主は
6 こう言われる。
   わたしはあなたを僕として
   ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
   イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
   だがそれにもまして
   わたしはあなたを国々の光とし
   わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
第一朗読 
イザヤ書 49章3、5―6節

  胎・ベテン

 この語は、まず@「」を意味します。それは空腹を感じる場所であり(箴13:25)、貪欲や情念の座であったり(ヨブ20:20)、知的な能力とも関係し(箴22:18)、人間の内奥をも表します(箴18:8)。
 A魂の反意語としての「」を表します。魂は塵に伏し、「腹」は地についたまま、神に祈ります(詩44:26)。
 B母の「」を意味します。リベカの「胎内」にも、タマルの「胎内」にも双子が宿りました(創25:24、38:27)。ヤコブは母の「胎」にいたときから、兄のかかとをつかむ人でした(ホセ12:4)。母の「胎内」で人間が組み立てられるのは確かなことですが(詩139:13)、その詳細はわからない、とコヘレトは考えます(コヘ11:5)。しかし、受胎や出産が成功するには人間を超えた力が不可欠ですから、人が母の「胎」にあるときには、神が参与していることには疑いがありません(詩22:11)。母親は自分の「胎」が産んだ子を憐れまないことはありませんが、たとえ忘れたとしても、神は民を忘れることがありません(イザ49:15)。
 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙 T 1章1―3節

神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
2 コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
第二朗読 
コリントの信徒への手紙 T 1章1―3節

  教会・エックレーシアー

 この語は語源的には「呼び出されたもの」を意味しますが、その原意は薄れて「集会、集まり」を表し、特にキリスト者の群れを指して「教会」と用いられます。
 まず、「会合、集会」を意味します。使19:39では「会議」と訳され、定期的に召集される政治組織を表していますが、使19:32、40の「集会」は一般的な意味で用いられています。
 次に、キリスト者の「教会」もしくは「会衆」を意味し、教会の「集まり」も、地域の「教会」も、すべてのキリスト者が属する普遍的「教会」もこの語で表します。「教会」で集まる際に仲間割れがあることをパウロは心配し(1コリ11:18)、「教会」を造り上げるために預言する力が必要であると教えます(1コリ14:5)。そして、神は「教会」の中にさまざまな賜物を与えており、一人一人が大切であると諭します(1コリ12:28)。
 かつて神の「教会」を迫害したパウロは(1コリ15:9)、今は、神の「教会」に挨拶を送ります。共に、神に呼び出された者として、終わりの時の救い受けていることを確認するためです。
 

 

今週の福音
ヨハネによる福音書 1章29―34節

29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、≠ェ鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『≠ェ降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
今週の福音 
ヨハネによる福音書 1章29―34節

   霊・プネウマ

 この語は動詞プネオー〈風が吹く・呼吸する〉と同根の名詞です。まず@文字通りには「風・息」を意味します。「風」は思いのままに吹きます(ヨハ3:8)。
 次にA体に生命力を与える「息吹・生気・霊魂」を表します。「魂」を欠いた体は死んでいますが(ヤコ2:26)、イエスによって「霊」が戻された娘は起き上がります(ルカ8:55)。
次にB人間存在の非物質的な部分で、可視的な部分である肉や体と対立する「霊魂・精神」を指します。体はコリントから離れているパウロですが、「霊」ではそこにいます(1コリ5:3)。
次にC人間の内的な生活の座、神を知る力である「」を意味します。パウロは御子の福音を宣べ伝えながら、「心」から神に仕えています(ロマ1:9)。
次にD思考に方向性を与える力としての「」を表します。キリスト者は柔和な「心」で導きます(ガラ6:1)。
最後にE感覚的には認知できない「独立した霊的な存在」を指します。神の「霊」が人間を満たします(ロマ8:11)。



 

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