A年年間第5主日
飢えている人に心を配り神の秘められた計画を宣べ伝え天の父をあがめる

第一朗読
イザヤ書 58章7―10節

7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え
   さまよう貧しい人を家に招き入れ
   裸の人に会えば衣を着せかけ
   同胞に助けを惜しまないこと。
8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で
   あなたのは速やかにいやされる。
   あなたの正義があなたを先導し
   主の栄光があなたのしんがりを守る。
9 あなたが呼べば主は答え
   あなたが叫べば
   「わたしはここにいる」と言われる。
   軛を負わすこと、指をさすこと
   呪いの言葉をはくことを
   あなたの中から取り去るなら
10 飢えている人に心を配り
   苦しめられている人の願いを満たすなら
   あなたの光は、闇の中に輝き出で
   あなたを包む闇は、真昼のようになる。
第一朗読 
イザヤ書 58章7―10節

   傷・アルーハー

 この語はもともとは「傷口をふさぐ新しい肉」を指すと思われます。旧約聖書全体で6回しか使われませんが、今週の朗読箇所イザ58:8を除いて、常に動詞アーラー〈上る・成長する〉と一緒に使われています。おそらく、傷口をふさぐために「盛り上がってくる肉」を指す言葉だからかもしれません。そこから、「いやされるべき傷」とか「癒し・回復」を意味します。
 偶像に走ったがゆえに傷を受けたイスラエルの民に、なぜ「傷」が癒えないのか悟るべきだ、とエレミヤは説き(エレ8:22)、神は民の「傷」を癒し(エレ30:17)、「いやし」と治癒と回復をもたらすと約束します(エレ33:6)。
この語はまた神殿の壁の「修理」(代下24:13)や、エルサレムの城壁の「修理」(ネヘ4:1)の意味でも使われています。
 今週の朗読に含まれるイザ58:8を直訳すれば、「<あなたの傷口をふさぐ新たな肉が>速やかに盛り上がってくる」となります。ここでの「いやされるべき傷」とは、富む者と貧しい者の間に見られる亀裂のことです。
 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙 T 2章1―5節

1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
3そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊≠ニ力の証明によるものでした。
5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
第二朗読 
コリントの信徒への手紙 T 2章1―5節

   恐れ・フォボス

 この語は「恐れ、畏れ」を意味しますが、能動的な意味でも、受動的な意味でも用いられます。
 まず、能動的に「恐ろしいもの、脅し」を意味します。支配者は悪を行う者には「恐ろしい存在」であるとパウロは述べ(ロマ13:3)、善を行うようにと勧めます。
 次に、受動的に「危惧、恐怖、突然の驚き、不安」を意味します。イエスの弟子たちはユダヤ人を「恐れて」、家の戸に鍵をかけていましたが(ヨハ20:19)、イエスが死んだのは、死の「恐怖」のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放するためです(ヘブ2:15)。また、この語は「崇敬、畏敬、尊敬」の意味でも用いられます。神を「畏れ」るキリスト者は聖なる者とされ(2コリ7:1)、キリストに対する「畏れ」をもって、互いに仕え合います(エフェ5:21)。
 今週の朗読にあるように、コリントに着いたとき、パウロは「恐れ」に取りつかれ、激しく震えていました。それは彼が弱く、人の知恵に対抗する術を自分の中に持たないからです。そのパウロの姿こそが、神の力を示すことになります。
 この「神の力」は、人の言葉や知恵からに見れば「愚か」と映る十字架のキリストに現されました。ですから、「神の力」を伝えるためには、人の言葉や知恵は不要です。パウロが「弱さ」の中に留まるのは、それが「神の力」を伝える唯一の方法だからです。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 5章13―16節

13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
今週の福音 
マタイによる福音書 5章13―16節


   行い・エルゴン

 この語は次の三つの意味で使われます。@能動的な意味で「活動・行い・働き」を表します。まず、神やイエスに使われ、天地創造の「業」(ヘブ4:3)とかイエスが父の名によって行う「業」(ヨハ10:25)を表します。また、「行い」はその人の生き方、特に神への関わり方を示しますが(ロマ13:12)、信仰と行いの関わりをめぐってパウロとヤコブの間に微妙な相違が見られます。パウロは「律法の行い」ではなく、キリストを信じる信仰によって救われると説いていますが(ロマ3:20以下)、ヤコブは「行い」を欠くキリスト者の信仰は無益で死んだものだ、と主張します(ヤコ2:14以下)。
 A受動的に使われ「なされるべき仕事・課題」を意味します。イエスは御父からの「業」を成し遂げ、御父の栄光を現しました(ヨハ17:4)。
 B働きの結果としての「成果」を表します。偶像は人の手の「業(造ったもの)」ですが(使7:41)、世界は神の手の「業」です(ヘブ1:10)。



 

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