A年四旬第5主日
わたしが主であることを知り肉ではなく霊の支配下にいて神の栄光が見られる

第一朗読
エゼキエル書 37章12―14節

12 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちのを開く。わが民よ、わたしはお前たちをから引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13 わたしがを開いて、お前たちをから引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。
14 また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。
第一朗読 
エゼキエル書 37章12―14節

   墓・ケヴェル

 この語は動詞カーヴァル〈埋葬する〉から派生した名詞で「」を意味します。どのような文化でも同じでしょうが、古代イスラエルの人々にとっても、死者の埋葬は重要な出来事でした。埋葬されることがなければ、他界における安らぎはなく、実に不名誉なことと見られていました。例えば、自分の宮殿を立派にすることに専心するヨヤキム王は、その死を悼む者もなく、「ろばを埋めるように埋められる」王だ、とエレミヤは宣告しています(エレ22:19)。このように、埋葬は欠いてはならない、敬虔な行為でしたが、聖書はイスラエル(ヤコブ)を唯一の例外として、葬儀の模様や墓の壮大さを描くことがありません。死後の世界よりも、この世界で神に出会うことが大事だとされていたからです。
 今週の朗読では、転義した意味で使われ、捕囚地バビロンを指しています。将来に希望をもてない捕囚生活は死も同然ですから、「墓」と表現されています。エゼキエルは墓が開かれ、イスラエルの地に運ばれる日が来る、と説いています。今度こそ、神との出会いを大事に生きるためです。
 

 

第二朗読
ロ―マの信徒への手紙 8章8―11節

8 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
10 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、霊≠ヘによって命となっています。
11 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
第二朗読 
ロ―マの信徒への手紙 8章8―11節

   義・ディカイオシュネー

 この語は、裁き手が持つべき特性としての「正義、公正」を意味しますが(使17:31、黙19:11)、多くの用例では、宗教的、道徳的な意味で用いられます。まず、神が人間に求める「義、正義」を表します。イエスはヨハネから洗礼を受けることは「正しいこと」であると述べ(マタ3:15)、回心前のパウロは律法の「義」については非難の余地がありませんでした(フィリ3:6)。このような義から生じる「敬虔な行い」、さらに正義の性格が限定されて「憐れみ、慈善行為」も「義」と呼ばれます。また、人生全体を導く主要な動機としての「」を表し、さらに、「」はキリスト者の特性をなすものであるため、「キリスト教」と同じ意味で用いられます。
 最後に、パウロに特徴的な考え方では、「神から贈られた義、神の義」を表します。信仰に基づいて神から与えられる「義」は(フィリ3:9)、救われた者を神への奉仕に結びつけ(ロマ6:13)、今週の朗読にあるように、救われた者に命を保証します。この「義」は終わりの日に完全に現実になる、確かな希望であるとパウロは教えます(ガラ5:5)。
 

 

今週の福音
ヨハネによる福音書 11章1―45節

33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
35 イエスは涙を流された。
36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
今週の福音 
ヨハネによる福音書 11章1―45節

   心に憤りを覚えて・エンブリマオマイ

 この語は「馬が鼻を鳴らす」ことを表し、そこから「鼻息を荒くして言う・厳しく注意を促す」ことを意味します。新約聖書では5回しか使われませんが、その内4回はイエスに用いられています。
 一人の女性が高価な香油をイエスの頭に注いだとき、彼女を「厳しくとがめる」人がいました(マコ14:5)。
 イエスは重い皮膚病の人をいやしたときにも(マコ1:43)、目の不自由な人をいやしたときにも(マタ9:30)、それをだれにも知らせないようにと「厳しくお命じになりました」が、それはメシアに対するゆがんだ期待が民衆の間にふくらみ、イエスの果たすべき使命が誤解され、十字架に死ぬメシアにつまずくことがあってはならないからです。
 ラザロの復活を告げるヨハネ11章ではこの語が二度使われます。一度目は弟ラザロの死を悼んで泣くマリアを目にしたときであり(33節)、二度目は今週の福音にあるように、ラザロの墓に向かうときです(38節)。イエスの怒りはサタンの働きに対する怒りです。



 

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