A年復活節第2主日
集まってパンを裂きキリストを見たことがないのに愛しイエスは神の子メシアであると信じる

第一朗読
使徒言行録 2章42―47節

 42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
 43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
第一朗読 

     裂く・クラオー

 この語はギリシア語としては「(枝などを)折る・砕く」ことを表しますが、聖書では(合計14回)常に「パンを裂く」の意味です。ユダヤ人は食事の際に、家父長がパンを取り、祝福の祈りを唱え、食卓に連なる人に裂いて分け与え、自分のためにも一片を裂き、それを食べることによって食事が始まりました。「パンを裂く」という表現は、祝福の言葉とパンの分与をも含む意味で使われていましたが、このような習慣はユダヤ人だけのものでした。
 この語は次の三つの場面と結びついて登場します。まず、イエスが五千人、あるいは四千人の人にパンを与える奇跡で、「パンを裂いた」ことに使われます(マタ14:19、15:36並行)。次に、最後の晩餐で弟子たちと食事をしたときに同じように「パンを裂いて」います(マタ26:26並行)。最後に、初代教会での、明らかに通常の食事とは違った聖餐での「パンを裂く」です(使20:7など)。
 今週の福音では、聖餐における「パン裂き」を表しており、救いをもたらす祝福を表現するための行為でした。

 

 

第二朗読
ペトロの手紙一 1章3―9節

 3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
第二朗読 

   準備されている・ヘトイモス

 この語は「用意のできた、準備のできた」を意味する形容詞で、何かの状態がすでに起こっていることを表します。
 まず、事物に用いられて、ある目的のために用意ができていることを表します。「食事の準備ができている」は「配膳が済んだ」を意味し、「時は備えられている」は、「時は来ている」を意味します。招かれていた人々は「用意ができています」と知らされても婚宴に出かけず、滅ぼされましたが(マタ22:4並行)、イエスは弟子にあなたがたの時はいつも「備えられている」と言いました(ヨハ7:6)。また、2コリ10:16では「出来上がっている」の意味で用いられ、「成し遂げられた活動」と訳されています。
 次に、人物に用いられて「支度のできた、心の決まった」を意味します。シモンは主と一緒に死ぬことを「覚悟しており」(ルカ22:33)、イエスは人の子は思いがけずに来るから「用意していなさい」と指示しました(マタ24:44並行)。
 今週の朗読は、救いは現されるように「準備されている」と述べて、救いが確かであることを知らせます。救いを現す準備をしているのは神だからです。
 

 

今週の福音
ヨハネによる福音書 20章19―31節

 19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20 そう言って、とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方のに釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、このをそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしのを見なさい。また、あなたのを伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
今週の福音 

   手・ケイル

 イエスは子供に「手」を置いて祝福し(マタ19:13)、病人をいやし、「手」を差し伸べて弟子に指示を与え(マタ12:49)、水に沈みかけたペトロを救い出します(マタ14:31)。
 また、イエスに「手」を取られるとき、ペトロの姑は熱が去り(マコ1:31)、会堂長の娘はよみがえり(マコ5:41)、汚れた霊にとりつかれた子供が自由になります(マコ9:27)。
 このように「手」を通して実現するイエスと人々との交わりは、父なる神とイエスとの交わりに基づいています。というのは、イエスはその霊を御父の「手」にゆだね(ルカ二23:46)、神はすべてを御子の「手」にゆだねており(ヨハ3:35)、この御父と御子の交わりに招かれた人々をイエスの「手」から奪い取るものは誰もいないからです(ヨハ10:28)。
 復活したイエスの「手」には、人々の罪をあがなうために受けた傷がありました。その「手」が示されたとき、トマスは試すことなく、五感を超えた交わりに気づかされ、信じる者となります。



 

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