A年キリストの聖体
パンだけで生きるのではなくキリストの体にあずかり永遠の命を得る

第一朗読
申命記 8章2―3・14b―16a節

 2 あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
  3 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
 14b 主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、
  15 炎の蛇とさそりのいる、水のない渇いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、
  16a あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。
第一朗読 

     試す・ナーサー

 この語はだいたいは「困難を与えることによって、人物や事物の質を試す」ことを表しますが、しかし「悪い行いへといざなう」といった意味合いはないというべきです。
 まず「何かをためしにやってみる」の意味で使われます。牧童ダビデは兜や鎧や剣を帯びて歩いて「みた」が、歩きにくかったので、それらを脱ぎ去りました(サム上17:39)。ヨブを不機嫌にするだけだと知っていても、エリファズは「あえて」発言します(ヨブ4:2)。さまざまな試みや力ある業によって、「あえて」一つの国民(イスラエル)を他国民(エジプト)から選び出し、ご自分のものとした神があるだろうか(申4:34)。
 次に、困難に直面している人に対して使われて、「試みる」を意味します。人は他人を「試す」ことはできても(王上10:1、代下9:1)、神を「試す」ことは禁じられています(申6:16)。しかし、神は人を「試す」ことができます(申8:2、16)。なぜなら、神が行う試みは、神の道にいっそう密着して生きるようにと、人を鍛えるための手段となるからです。

 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙一 10章16―17節

 16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストのにあずかることではないか。
  17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つのです。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
第二朗読 

   体・ソーマ

 新約聖書の用例142回のうち、今週の朗読箇所でもある「コリントの信徒への手紙 一」に46回用いられます。他の文書での用例数はいずれも14回以下であることを考えると、突出した数であることがわかります。
 この語はホメロスでは「死体」を意味しましたが、後に、生きている人間や動物の「体、身体」を表すようになりました。複数形では「奴隷」を意味する用例もあります(黙18:13)。さらに、「影」の反意語として、影を投げかける本体を表して「そのもの自体、実体」を意味します(コロ2:17)。
 人間のこの世の体は罪と死に縛られているので、罪に支配された「体」(ロマ6:6)であり、死に定められた「体」と呼ばれます(ロマ7:24)。また、それは自然の命の「体」であり、復活した人間が持つ霊の「体」と対比されます(1コリ15:44)。
 今週の朗読では、一つの体としての「キリスト者の共同体、教会」の意味で用いられています。それは霊としてのキリストによって満たされ、命を与えられ、キリストをかしらとする「体」です。
 

 

今週の福音
ヨハネによる福音書 6章51―58節

 51「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
  53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
  54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
  55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
  56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
  57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
  58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 

 

今週の福音 

   食べる・トローゴー

 この語は「かじる・音を立てて食べる」を意味します。いくぶん低俗な響きを持った言葉であり、餌を食べる動物に使われていました。新約聖書での用例は6回であり、そのうち5回はヨハネ福音書で使われています。
 今週の福音では、53節以前の「食べる」は最も一般的な動詞エスシオーですが、節以降、58節「先祖が<食べた(エスシオー)>のに死んでしまった」をのぞく、他の「食べる」は四つともこの語トローゴーの現在分詞形です。
 54節以降、なぜ動詞が変えられているのか気になります。後期ヘレニズム期の通俗ギリシア語では、エスシオーの現在形の代用として使われることがあるので、ここもその例の一つだと見ることもできます。
 しかし、51節後半から聖餐との関連が明白になるので、「(イエスを)食べる」とは「イエスの言葉を理解する」といった比喩的な意味では終わらず、イエスの体(ご聖体)を実際に「食べる」ことを表現したかったのだと説明することもできます。いずれにしても、イエスとの一致を表す表現であるのは明らかです。



 

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