A年年間第10主日
神を知りなおも望みを抱いて「わたしに従いなさい」

第一朗読
ホセア書 6章3―6節

3「我々は主を知ろう。
   主を知ることを追い求めよう。
   主は曙の光のように必ず現れ
   降り注ぐ雨のように
   大地を潤す春雨のように
   我々を訪れてくださる。」
4 エフライムよ
   わたしはお前をどうしたらよいのか。
   ユダよ、お前をどうしたらよいのか。
   お前たちの愛は朝の霧
   すぐに消えうせる露のようだ。
5 それゆえ、わたしは彼らを
   預言者たちによって切り倒し
   わたしの口の言葉をもって滅ぼす。
   わたしの行う裁きは光のように現れる。
6 わたしが喜ぶのは
   愛であっていけにえではなく
   神を知ることであって
   焼き尽くす献げ物ではない。
第一朗読 

     雨と春雨・ゲシェムとマルコーシュ

パレスチナは地中海性気候に属しており、夏には降雨はほとんどないが、秋から春にかけて雨が降ります。雨季の到来を告げる「秋の雨(ヨーレー)」は10―11月に降る雨を指し、冬作のための耕作を可能にする雨です(申11:14)。続く12月中旬から2月末に本格的に降る「冬の雨(ゲシェム、マータール)」は井戸や水槽を満たし、草木の生育を可能にする大事な雨です。最後に3―4月に降る「春の雨(マルコーシュ)」は、夏作を成長させ、収穫を確実にする雨で、この雨を最後に乾季に入ります。
エレ5:24に「我々の主なる神を畏れ敬おう、雨(ゲシェム)を与える方、時に応じて秋の雨(ヨーレー)、春の雨(マルコーシュ)を与える……方を」とあるように、雨はパレスチナの生活にとって決定的な重要さをもっていました。
そこで「シオンの子らよ。…喜び躍れ。主は…元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる」(ヨエ2:23)と歌われ、雨は神からの祝福と見なされました。今週の朗読でも、「降り注ぐゲシェム」と「大地を潤すマルコーシュ」が救いの神の到来を示すしるしとされています。

 

 

第二朗読
ローマの信徒への手紙 4章18―25節

 18 彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。
  19 そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
  20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。
  21 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
  22 だからまた、それが彼の義と認められたわけです。
  23 しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、
  24 わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
  25 イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
第二朗読 

   約束・エパンゲリアー

 この語はもとは「告知」を意味し、後に特別な意味で、「約束、誓約、申し出」を意味するようになりました。新約聖書では人間が行う「約束」の意味での用例は一例だけで、「承諾」と訳されています(使23:21)。そのほかは神が行う「約束」、神によって「約束されたもの」を意味します。
 神はアブラハムとその子孫に世界を受け継がせるという「約束」を与え(ロマ4:13)、ダビデの子孫が継ぐ王国はとこしえに続くという「約束」に従って、救い主イエスを送りました(使13:23)。こうして、神の「約束」はイエスによって実現しましたが、神は一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと忍耐して、主の再臨という「約束」の実現を遅らせています(2ペト3:9)。
 御父は使徒を宣教に遣わす前に、「約束されたもの(聖霊)」を与え(ルカ24:49)、御子イエスが約束した「約束」とは永遠の命であることを教会は宣べ伝えます(1ヨハ2:25)。
 アブラハムのように、神の「約束」に信頼して生きて、永遠の命にあずかるようにと聖書は教えます。
 

 

今週の福音

マタイによる福音書 9章9―13節

 9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
  10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪びとも大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
  11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
  12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
  13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」

今週の福音 

   学ぶ・マンサノー

 この語は「(教えを受けて)学ぶ」を意味します。キリスト者が聞いて学ぶことを求められるのは、その生活が生来的な資質に基づくというよりは、キリストをとおして示された神の心と深く関わっているためです。キリスト者は、すべてにおいて模範であるキリストから、使徒から、自然から学ぶことができます。
 キリストは御子でありながら、多くの苦しみによって従順を「学び」(ヘブ5:8)、重荷を負う者に彼に「学ぶ」なら、安らぎが得られると呼びかけます(マタ11:29)。パウロは、彼から「学んだ」ことを実行するなら、平和の神が共にいると教え(フィリ4:9)、また、ローマの人々には、彼らが「学んだ」教えに反する人々から遠ざかるようにと忠告します(ロマ16:17)。季節を知らせるいちじくの木から教えを「学ぶ」ことができた者は、人の子が戸口に近づき、終わりの日が近いことを悟ります(マタ24:32並行)。
 今週の福音では、ホセアの言葉を「学ぶ」なら、イエスが罪人と食事を共にする秘密を知ることができると教えます。イエスは神の心を現す人だからです。



 

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