A年年間第12主日
恐怖が四方から迫るが一人の人イエス・キリストの仲間であると言い表す

第一朗読
エレミヤ書 20章10―13節

10 わたしには聞こえています
    多くの人の非難が。
    「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。
    「共に彼を弾劾しよう」と。
    わたしの味方だった者も皆
    わたしがつまずくのを待ち構えている。
    「彼は惑わされて
    我々は勝つことができる。
    彼に復讐してやろう」と。
11 しかし主は、恐るべき勇士として
    わたしと共にいます。
   それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき
     勝つことを得ず、成功することなく
    甚だしく辱めを受ける。
    それは忘れられることのない
    とこしえの恥辱である。
12 万軍の主よ
    正義をもって人のはらわたと心を究め
    見抜かれる方よ。
    わたしに見させてください
    あなたが彼らに復讐されるのを。
    わたしの訴えをあなたに打ち明け
    お任せします。
13 主に向かって歌い、主を賛美せよ。
    主は貧しい人の魂を
    悪事を謀る者の手から助け出される。
第一朗読 

     はらわた・キルヤー

 この語は体の器官としての「腎臓」を意味します。人間の「腎臓」は神が創造したものであり(詩139:13)、苦しむヨブにとって友人の言葉は「はらわた」を射抜く弓矢のように痛みを引き起こします(ヨブ16:13)。また、動物の「腎臓」は神への貴重な献げ物です(レビ記に26回の用例)。このような用例から分かるように、腎臓は神と直結する大事な臓器と受け取られていました。
 「腎臓」はこのような臓器ですから、「感情や愛情の座として重要な器官」の意味でも使われます。今は苦しむヨブですが、神を仰ぎ見て「はらわた」が絶え入るほどの日が来ると期待しています(ヨブ19:27)。神が諭すために語りかけるのは「心(キルヤー)」ですが(詩16:7)、悪人の攻撃にさらされている者の「はらわた」は裂ける思いに苦しみます(詩73:21)。
 口先では神に近く、「腹(キルヤー)」では遠い人もいます(エレ12:2)。しかし、心を探り、「はらわた」を究める神に信頼する者は(エレ17:10、詩7:10)、この正義をもって裁く方に復讐をゆだねます(エレ11:20)。

 

 

第二朗読
ローマの信徒への手紙 5章12―15節

 12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
  13 律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
  14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
 15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
第二朗読 

   違犯・パラバシス

 この語は、接頭辞パラ〈越えて〉と動詞バイノー〈行く〉からなる合成動詞パラバイノーの派生語です。「行き過ぎること、踏み越えること」を意味し、新約聖書では7回用いられ、律法を破る「違犯」の意味で用いられています。
 律法を誇りとしながら、それを「破る」のは神を侮ることであり(ロマ2:23)、神の名を汚します。律法は怒りを招くものであり、律法のないところには「違犯」もありません(ロマ4:15)。すべての「違犯」や不従順は当然な罰を受けたので(ヘブ2:2)、最初の契約の下で「犯された罪」を贖うためにキリストは死にました(ヘブ9:15)。そこで、パウロは、律法とはキリストが来られるときまで、「違犯」を明らかにするために付け加えられたものであると論じます(ガラ3:19)。
 今週の朗読では、アダムが犯した罪が「パラバシス」と言われ、さらに「パラプトーマ〈迷い出ること〉」とも呼ばれています。これらの語によって、アダムの罪が明らかにされます。死を招く罪とは、神の指示を踏み越え、歩むべき道から迷い出ることです。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 10章26―33節

 26「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
  27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
  28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
  29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
3  0 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
  31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
 32「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す
  33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
今週の福音 

   覆う・カリュプトー

 この語は文字通りには「何かが何かを覆う」の意味です。嵐に襲われた船が波に「覆われた=のまれそうになった」のに、イエスは眠っていました(マタ8:24)。また火のついたランプを器で「覆い隠す」ような人はいません(ルカ8:16)。
 転義した意味で使われることもあります。多くの罪を「覆う」のは愛ですから(1ペト4:8)、その愛によって兄弟を迷いから連れ戻すなら、その魂を死から救い、その罪を「覆う」ことができます(ヤコ5:20)。福音に「覆いがかかっていて」信じることができないのは、この世の神がその人の目をくらまし、福音の光が見えないようにしたからであり、福音は滅びの道をたどる人々に対して「覆われている」のです(2コリ4:3)。
 今週の福音は「<覆われている>もので現されないものはない」と教えますが、ここで「現される」と訳された動詞は接頭辞アポ〈分離〉とこの動詞カリュプトーとによる合成動詞アポカリュプトーです。同根の動詞を用いることで、啓示の確実さを強調しています。



 

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