A年年間第26主日
自分の行った悪から離れイエスの御名にひざまずき神の国に入る

第一朗読
エゼキエル書 18章25―28節

 25 それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
  26 正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。
  27 しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。
  28 彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。

 

 

 

第一朗読 
エゼキエル書 18章25―28節

   正しい・ターハン

 この語は基本的には「整える・量る・評価する」を意味します。まず、@カル形で使われ、神は人の心を「調べる方」です(箴21:2、24:12)。
 次に、Aピエル形で使われ、神は水を「量り」(ヨブ28:25)、手の幅でもって天を「測る」方ですから、誰が主の霊を「測る」ことができるでしょうか(イザ40:12―13)。神は地が溶け去ろうとしているときにも、地の柱を「固める」ことができます(詩75:4)。
 次にBプアル形で使われ、王の書記官と大祭司によって「確かめられた(=数えられた)」献金が工事担当者に渡されました(王下12:12)。
 最後にCニファル形で使われ、神は何事をもご存じだから、人の行いが「正されずに(=測られずに)済むことがありません」(サム上2:3)。今週の朗読での用例はCに属し、「基準に適っている・正しく公正である」の意味です。
 この語は人間よりも神に使われることが多く、天地を測り整えた神は人の心を調べることができます。従って、神が整えた正しい道を歩むことが、人間の正しさになります。
 

 

第二朗読
フィリピの信徒への手紙 2章1―11節

 1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊≠ノよる交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
  2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
  3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え
  4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
  5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
  6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
  7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
  8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
  9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
  10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき
  11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
第二朗読 
フィリピの信徒への手紙 2章1―11節

   考える・ヘーゲオマイ

 この語は、まず「導く、指導する」を意味します。新約聖書ではもっぱら現在分詞形(男性の冠詞を伴う)が用いられ、どのようなあり方であれ、指導的な立場にある人物を表します。仕える者と対比されて「上に立つ人」(ルカ22:26)、君主のような権力者を表して「指導者」(マタ2:6)、高い身分の役人を指して「大臣」(使7:10)を意味します。また、キリスト教会の「指導者」もこの語で表されます(ヘブ13:7、17、24)。
 次に、「思う、考える、見なす」を意味します。サラは約束した方は真実な方であると「信じて」、子をもうける力を与えられ(ヘブ11:11)、パウロは主キリスト・イエスを知ることにより、失ったすべてを塵あくたと「見なしています」(フィリ3:8)。
 この語は、よく調べた事実に基づいた確かな判断を表します。キリストの福音や生き方に照らして判断するなら、誰もが認める長所を欠く人も、自分よりも優れた者と「考える」ことになります。そのために、キリストは神と等しい者であることに固執しようとは「思わ」ず、自分を無にしたからです。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 21章28―32節

 28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
  29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
  30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
  31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
  32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
今週の福音 
マタイによる福音書 21章28―32節

   考え直す・メタメロマイ

 この語の用例数は6回にすぎませんが、まずは@「自分の行為の結果を知って、後で違った考えになる=考え直す」を意味します。今週の朗読の29節と32節の用例は、次に述べるAの意味も可能ですが、やはり「考え直す」のほうが自然だと思われます。神はイエスを永遠の祭司としましたが、そのことについて「御心を変えられる」ことはありません(ヘブ7:21)。
 次にA「自分の行為の結果を知って、それを悲しみ、後悔する」ことを表します。ユダはイエスに有罪の判決が下ったのを知って「後悔した」が、罪の告白の相手を間違え、罪を赦せぬ者に告白しました(マタ27:3)。パウロはコリント教会を叱りつける手紙を書いたことを「後悔しません。…たとえ後悔したとしても」今は喜んでいます。なぜなら、彼らが悲しんで悔い改めたからです(2コリ7:8)。パウロによると、悔い改めは「後悔」と同様に一種の悲しみですが、悲しみが御心にかなった悲しみとなると、もはや「後悔」ではなく、悔い改めです。



 

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