A年年間第31主日
道を踏みはずすことなく神の言葉として受け入れ仕える者になりなさい

第一朗読
マラキ書 1章14b―2章2a、8―10節

 14b わたしは大いなる王で、わたしの名は諸国の間で畏れられている、と万軍の主は言われる。
 1 祭司たちよ、今あなたたちにこの命令が下される。
  2a もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。
  8  だが、あなたたちは道を踏みはずし
      教えによって多くの人をつまずかせ
      レビとの契約を破棄してしまったと
      万軍の主は言われる。
  9  わたしも、あなたたちを
      民のすべてに軽んじられる価値なき者とした。
      あなたたちがわたしの道を守らず
      人を偏り見つつ教えたからだ。
  10 我々は皆、唯一の父を持っているではないか。
      我々を創造されたのは唯一の神ではないか。
      なぜ、兄弟が互いに裏切り
      我々の先祖の契約を汚すのか。
第一朗読 
マラキ書 1章14b―2章2a、8―10節

   軽んじる・バーザー

 この動詞は今週の朗読のようにニファル形(語根の意味を再帰的、あるいは受動的な意味に変えるときの語形)では次のような意味で使われます。
 @「軽蔑された」の意味になります。若さのゆえに「侮られています」が、神の命令を決して忘れることがありません(詩119:141)。人々に「軽蔑された」苦難の僕は実は彼らの病を背負った人でした(イザ53:3)。バビロンに流されたコンヤ王は「卑しめられた」壺であり、栄えることのない男となります(エレ22:28)。
 A「無価値である」ことを表します。サウルと兵士は上等な戦利品は残し、「無価値なもの」だけを滅ぼし、神の指示をおろそかにしました(サム上15:9)。
 B「卑しむ・軽んじる」の意味にもなります。祭壇に汚れたパンをささげ、主の食卓は「軽んじられてもよい」と言い(マラ1:7)、その食卓の果実は「軽んじられてよい」と言って、御名を冒涜しています(マラ1:12)。
 今週の朗読ではBの意味で使われています。マラキ書ではカル形を含め、合計5回も使われています。
 

 

第二朗読
テサロニケの信徒への手紙 T 2章7b―9、13節

 7b わたしたちは、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、
   8 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。
   9 兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。
 13 このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。
第二朗読 
テサロニケの信徒への手紙 T 2章7b―9、13節

   事実・アレーソース

 この語は形容詞アレーセース〈真の〉から派生する副詞で、「ほんとうに、真実に、現実に、実際に」を意味します。形容詞アレーセースはもとは「隠されていない」を意味し、名詞アレーセイア〈真理、事実、誠実〉も派生語の一つです。
 この語は副詞ですが、形容詞のように名詞を修飾する用例も見られます。ナタナエルは「まことの」イスラエル人であり(ヨハ1:47)、イエスの言葉に留まる者は「本当に」イエスの弟子であり(ヨハ8:31)、神の言葉を守るなら、「まことに」その人の内に神の愛は実現します(1ヨハ2:5)。イエスは「確かに言っておく」と言って神の国の教えを述べ(ルカ9:27、12:44、21:3)、イエスが波を静めたのを見た弟子たちも(マタ14:33)、十字架上のイエスが息を引き取る様子を見ていた百人隊長も(マコ15:39)、イエスは「本当に」神の子だ、と言いました。
 パウロたち宣教者が伝えた言葉は、「事実」神の言葉です。神の言葉は真理の言葉ですから、それは隠されることなく、現実に信じる一人一人のうちに働いて、生きる力を与えます。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 23章1―12節

 1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
  2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。
  3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
  4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
  5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
  6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、
  7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
  8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
  9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
  10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
  11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
今週の福音 
マタイによる福音書 23章1―12節

   高くする・ヒュプソオー

 この語は文字どおりには「持ち上げる・高く上げる」を意味しますが、転義して使われれば「栄誉や評判や身分を高める」ことを表します。しかし、どちらの用法に属するのかはっきりしない用法も多く見られます。
 人の子は十字架に「上げられ」(ヨハ3:14)、地上から「上げられ」、御父のもとに戻ります(ヨハ12:32)。神が復活させたイエスは神の右に「上げられた」メシアです(使2:33、5:31)。
 イエスはしばしば今週の朗読のように「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるだろう」と教えます(ルカ14:11、18:14をも参照)。この言葉の背景には人間を真に高くするのは神であって、人間自身ではないという信仰があります(エゼ21:31)。主は身分の低い者を「高く上げ」(ルカ1:52)、主の前にへりくだる者を「高めてくださり」(ヤコ10)、神の力強い御手の下で自分を低くする者を神が「高めてくださる」日が到来します(1ペト5:6)。



 

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