B年待降節第1主日
(贖い主を知る者が、キリストに結ばれ、目覚めている)
第一朗読 イザヤ63章16b―17・19b節、64章2b―7節 16b 主よ、あなたはわたしたちの父です。 わたしたちの贖い主」 これは永遠の昔からあなたの御名です。 17 なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを あなたの道から迷い出させ わたしたちの心をかたくなにして あなたを畏れないようにされるのですか。 立ち帰ってください、あなたの僕たちのために あなたの嗣業である部族のために。 19b どうか、天を裂いて降ってください。 御前に山々が揺れ動くように。 2b あなたの御前に山々は揺れ動く。 3 あなたを待つ者に計らってくださる方は 神よ、あなたのほかにはありません。 昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も 目に見た者もありません。 4 喜んで正しいことを行い あなたの道に従って、あなたを心に留める者を あなたは迎えてくださいます。 あなたは憤られました わたしたちが罪を犯したからです。 しかし、あなたの御業によって わたしたちはとこしえに救われます。 5 わたしたちは皆、汚れた者となり 正しい業もすべて汚れた着物のようになった。 わたしたちは皆、枯れ葉のようになり わたしたちの悪は風のように わたしたちを運び去った。 6 あなたの御名を呼ぶ者はなくなり 奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。 あなたはわたしたちから御顔を隠し わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた。 7 しかし、主よ、あなたは我らの父。 わたしたちは粘土、あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の業。 |
第一朗読 イザヤ63章16b―17・19b節、64章2b―7節 聖書の述べる「贖う」 日本語訳聖書で「贖う」と訳されるヘブライ語には二つあると言えます。ひとつはパーダーであり、「代価(等価なもの)を支払って所有権を得る」ことを表します。この語は出エジプトの出来事と結びつけられ、「危険から救い出す」といった意味で使われました。 もうひとつはガーアルであり、今週の朗読に使われている言葉です。この語は元来「親戚として振る舞う」ことを表します。イスラエル社会における親戚の義務はいろいろあります。まず、子供ができないうちに夫に死別した妻がいれば、夫の親戚の誰かが彼女を娶って、子供をもうけねばなりませんでした。ボアズがルツに「…主は生きておられる。わたしが<責任を果たします>。さあ、朝まで休みなさい」(ルツ3:13)と約束しますが、ここで「責任を果たす」と訳された動詞はガーアルです。また、身内の誰かが土地を手放したり、家族の誰かを奴隷に売ったようなときには、親戚は売り払われた土地や家族を買い戻す義務を負っていました。この場合には「買い戻す」と訳されています(レビ25:23以下)。 日本語の「贖う」は「金品を代償として出して、罪をまぬがれる・つぐないをする」の意味ですが、ガーアルにはそのような意味はありません。神にこの言葉が使われるとき、私たちが陥った不幸から救い出そうとする神の思いを表しています。 |
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第二朗読 コリントの信徒への手紙1 1章3―9節 3 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 4 わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。 5 あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。 6 こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、 7 その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。 8 主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。 9 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。 |
第二朗読 コリントの信徒への手紙1 1章3―9節 「エン・クリストー」 このギリシア語「エン・クリストー」を直訳すると、「キリストの中に」となります。パウロはキリスト者のあり方を表すときに、この句を好んで用います。日本聖書協会口語訳はこの句を「キリストにあって」と訳していますが、新共同訳は文脈によって「キリストにおいて」「キリストによって」「キリストに結ばれて」と訳しています。 キリスト者は、「信仰により、<キリスト・イエスに結ばれて>神の子」です(ガラ3:26)。洗礼によって、キリスト者は「キリストの中に」と言い表される関係の中に置かれますが、パウロはその関係を「キリストを着ている」とも表現します(ガラ3:27)。「キリストの中に」あるとき、私たちは「神の子」とされるのですから、「キリストの中に」という句は、信じる者が神の愛の支配下にいることを表しています。私たちが「キリストの中に」、あるいは「キリストが私たちの中に」いるとき、神の愛が私たちをとらえ、私たちを信じる者であるとともに、愛する者に変えます。信じる者が愛するようになるとき、新しく創造された者(2コリ5:17)、キリストの愛から生まれた者となります(2コリ5:14)。 |
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今週の福音 マルコによる福音書13章33―37節 33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。 34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。 35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。 36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。 37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」 |
今週の福音 マルコによる福音書13章33―37節 「目覚めている」「グレーゴレオー」 目を覚ましているといっても、・文字通りに「目を開けて眠り込まずにいる」状態のこともあれば、体ではなく心の状態を表し、どのような事態にも対処できる油断のなさを表して「覚めている」こともあります。両者の境目は必ずしも明確ではないが、意味の上では区別することができます。 死を間近に控えたイエスはゲツセマネの園に行き、「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と弟子たちに言い残し、少し離れたところで祈っています(マタ26:38とその並行箇所)。ここでの「目を覚ましている」は文字通りに「目を開けて、眠らずにいる」の意味でしょう。しかし、神に祈った後、弟子たちのもとに戻り、彼らが寝ているのを見てイエスが「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と諭すときには(マタ26:41とその並行箇所)、むしろ心の姿勢について語っています。 イエスを覆う闇は十字架によって勝利を得たかのように勝ち誇るが、その闇につまずかないためには、弟子たちは心の「目を覚まして」祈らねばなりません。祈りながら目を開けて、よく見るなら、イエスの受難が救いのためであると理解できます。 |