B年年間第4主日
あなたのような預言者を立てあなたがたを束縛するためでなく権威ある者としてお教えになった

第一朗読
申命記 18章15―20節

 15あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。
16このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」とあなたの神、主に求めたことによっている。
17主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。
18わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立てその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。
19彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。
20ただし、その預言者がわたしの命じていないことを、勝手にわたしの名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない。」
第一朗読 

  預言者・ナーヴィー

 ダビデをねたみの目で見るようになったサウル王が、ダビデを狙って槍を振りかざしたとき、悪霊がサウル王に降り、彼を「ものに取りつかれた状態に陥れた」と述べられています(サム上18:10)。ここで「ものに取りつかれた状態に陥れた」と訳された言葉は、ナーヴィー〈預言者〉から派生した動詞ナーヴァーであり、多くは「預言する」と訳される言葉です。このように、ナーヴィーは「神がかりの状態になり、常軌をはずした行動を取る人」を表していました。ですから、ダビデを追ってラマに向かったサウル王が「預言する状態になり」、着物を脱ぎ捨て裸で倒れたのを見た人々は、サウルも「預言者」の仲間かと言って、失望をあらわにしました(サム上19:24)。
 しかし紀元前8世紀の預言者アモス以降は、このような像は消え去り、神から派遣されて神の言葉を語る者としての側面が強調され、聖書に特徴的な預言者像が確立されます。
15・18節の「預言者を立てる」は、他にはエレ29:15に見られます。18節の「その口にわたしの言葉を授ける」もエレ1:9にあることから考えると、「モーセのような預言者」とはエレミヤを念頭においた表現かもしれません。
 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙一 7章32―35節

32思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、
33結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い
34心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います
35このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。
第二朗読 

  心を遣う・メリムナオー

 よい意味で使えば「心を遣う・心に懸ける」ですが、悪い意味では「思い悩む・懸念する」ことを表します。
 イエスは何を飲もうか、何を食べようか、何を着ようかと「思い悩むな」と教えました(マタ6:31、ルカ12:22)。この場合、イエスが指摘する不都合とは、生活に必要なものを一時的に確保することで、自分の将来をも保証できると考え、神が示す配慮と愛を否定することです。命は食物にまさっているのだから(マタ6:25)、また、思い煩ったからとて自分の寿命を確実にできはしないのだから(マタ6:27)、思い煩うのは愚かなことです。そして、思い煩いは不信仰の現れでもあります。なぜなら、すべて必要なものを与えてくださる神の心遣いを疑うことにつながるからです。
 今週の朗読が述べるように、終末が近いことを知るなら、神の心遣いに目を向け、世の事に「思い煩う」ことなく、主を喜ばせるために、主のことに「心を遣う」生活へと向かい、しかも共同体の仲間を「心にかける」ことになります(フィリ2:20)。それが可能になるのは、主に心をまっすぐに向けるときです。

 

 

今週の福音
マルコによる福音書 1章21―28節

 21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
22人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
28イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
今週の福音 

  権威・エクスーシアー

 この語は動詞エクセスティン〈自由である・許されている〉から派生した名詞であり、ギリシア語としては「法律・政治・倫理の領域での権力」とか、「王など特別の地位にある者の権能」とか、「役人の職権、使者の権限」を表します。
新約聖書にもこの意味での用例が見られますが(ルカ4:6、12:11など)、新約聖書では特に「神からくる権威」を表すために使われます。例えば、マルコはこの語を10回用いますが、13:34を除く9回は、イエスが行う悪霊追放や病者の癒しに示された「権威」を表しています(3:15、11:28―33など)。
 このように新約聖書に特徴的な用例では、王の権力とか律法学者の学問的権威ではなく、福音をもたらすイエスの驚くべき業のうちに顕現する神の働きを指しています。
 ですから、今週の福音でも、イエスが汚れた霊に「出て行け」と命じると、彼は大声を上げて「出て行った」と書きます。イエスの言葉は、「光あれ、すると光があった」と述べられている神の言葉と同じ力を持つ言葉です。福音は律法学者の教えではなく、力ある業にも示されたイエスの教えによって到来しました。



 

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