B年年間第6主日
顔に汗を流してパンを得る者すべて神の栄光を現すために手を差し伸べてその人に触れた

第一朗読
創世記 3章16―19節

16神は女に向かって言われた。
    「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
    お前は、苦しんで子を産む。
    お前は男を求め
    彼はお前を支配する。」
17神はアダムに向かって言われた。
    「お前は女の声に従い
  取って食べるなと命じた木から食べた。
    お前のゆえに、土は呪われるものとなった
    お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
18お前に対して
    土は茨とあざみを生えいでさせる
    野の草を食べようとするお前に。
19お前は顔に汗を流してパンを得る
    土に返るときまで。
    お前がそこから取られた土に。
    塵にすぎないお前は塵に返る。」
第一朗読 

  呪う・アーラル

この語は「(呪文でもって)拘束する・障害によって活動を禁止する・抵抗できないように力を失わせる」といったことを表します。どのような文化も「呪い」はありますが、聖書での特徴は、呪術的側面が後退し、神の意思を表す手段とされていることです。また、周辺諸国での「呪い」は個人の財産の侵害と密接に関係していますが、イスラエルでは唯一の神への義務とか隣人への愛を無視する者への罰と見なされます。
ですから、カインは神から「今、お前は…土から呪われた者」(直訳)との宣告を受けることによって、土からの産物を享受することが禁じられてしまいました(創四11)。また、窓から突き落とされて死んだイゼベルが「あの呪われた女」と呼ばれるのは、適切な埋葬を受けることができないからです(王下9:34)。また、モアブの王がバラムにイスラエルを「呪う」ようにと依頼したのは、バラムの呪文によってイスラエルから力を奪い、国から追い出そうと考えたからです(民22:6)。
へびと土が神によって呪われますが、この呪いによって、へびはあらゆる家畜や獣から遠ざけられ、土は人間に素直に実りをもたらさなくなりました。
 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙一 10章31節―11章1節

 31だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
32ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。
33わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。
1わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
第二朗読 

  喜ばせる・アレスコー
---神の栄光を現すために---

 この動詞は「気に入られる・喜ばせる」を意味し、新約聖書に17回用いられていますが、4例を除けば、パウロの手紙での用例になります。
 ヘロディアの娘は、ヘロデの誕生日に踊りをおどり、ヘロデとその客を「喜ばせ」ました(マコ6:22、マタ14:6)。兵役に服している者は自分を召集した者の「気に入ろうとします」(2テモ2:4)。初代教会では、祈りと御言葉の奉仕に専念する者と食事の世話をする者とに分かれるという提案に一同は「賛成し」ました(使6:5)。これらの用例では「気に入る」のは人ですが、パウロの手紙では、神に「喜ばれる」ように歩むことを求めています(1テサ4:1)。
 パウロは1コリ7:32−34でこの語を3回用い、妻や夫ではなく、主に「喜ばれる」生活を提案します。そのような生活は、自分の「満足を求める」のではなく、隣人を「喜ばせ」ます(ロマ15:2)。すべての人を救おうとする神の栄光を現すために、パウロはすべての人を「喜ばそう」とします(1コリ10:33)。人を「喜ばす」パウロの背後には、人と人との関わりを喜ぶ神がいるのです。

 

 

今週の福音
マルコによる福音書 1章40―45節

40さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
41イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
42たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった
43イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
44言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
45しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
今週の福音 

  清くする・カサリゾー

 この語はまずは「身体や事物の汚れをきれいにする」ことを表します。ファリサイ派の人々が「きれいにする」のは杯や皿の外側です(マタ23:25)。
そこで、イエスは杯の内側を「きれいにする」ようにとファリサイ派の人々に求めますが(マタ23:26)、この時には「罪の汚れから清める」の意味であり、倫理的な清さを表します。
さらに宗教的な清さを表し、「祭儀にふさわしくないけがれを取り除く・清める」の意味で使われます。人々によって汚れているとされた食べ物は神が「清くしていた」ものであり(使10:15)、イエスは不浄とされた重い皮膚病を「清めます」(ルカ4:27)。
今週の福音では三度使われ、「もしあなたが【望め】ば、私を<清くする>ことが{できます}」とひれ伏した重い皮膚病の男に、イエスが「私は【望む】。<清くなれ>」と語りかけると、たちまち病は去り、その人は「清くなりました」。「望む」と訳された動詞は「意志」と同根であり、「できる」と訳された動詞は「力ある業」と同根です。イエスは神の「意志」に合わせて「力ある業」を行いますが、その手によって神の支配が明示されます。



 

今週の朗読のキーワードに戻る