B年四旬節第1主日
契約を立てた方はキリストの復活によって救って荒れ野に送り出した

第一朗読
創世記9章8―15節

 8神はノアと彼の息子たちに言われた。
 9「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる
10あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。
11わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」
 12更に神は言われた。
 「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。
13すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。
14わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、
15わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。
第一朗読 

  滅ぼす・シャーハト

 この語はぶどう畑などを「だめにする」、町の壁などを「破壊する」、誰かを「殺す」ことのほかに、道徳的に「堕落する」ことをも表します。
 ノアの洪水物語では7回使われています(いずれも祭司資料)。神が地を滅ぼそうと考えたのは、この地が神の前に「<堕落し>…見よ、それは<堕落し>」、すべての肉なる者は「堕落」の道を歩んでいたからです(6:11-12)。最初の二つはニファル形(語根の語義を受動的な意味に変える語形)であり、直訳すれば「地はだめにされていた」となり、三番目はヒフィル形(語根の語義を使役的な意味に変える語形)で、「肉なる者は自分の道をだめにさせていた」の意味です。そこで神は「ご自身をして彼らを滅ぼさせる(ヒフィル形)」洪水を起こし(6:13)、天の下から「滅ぼす」(6:17)と決意します。最後の用例はピエル形(語根の意味を強めるときの語形)であり、滅ぼすという行為の結果を強調する語形です。語形の変化によって、「だめにされた」地を「ご自身をして滅ぼさせる」と考えた神がそれを「滅びの状態に置いた」という心の動きが表現されます。
 終結部の9:11・15はピエル形を用いて、悲惨な状態をもたらす滅びを二度と起こしはしないという決意が表明されます。
 

 

第二朗読
ペトロの手紙一 3章18―22節

 18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。
22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
第二朗読 

 忍耐・マクロシューミア

 この語は新約聖書では、手紙の中だけに用いられています。
 まず、「忍耐・辛抱強さ」を表します。キリスト者はどんなことも根気強く「耐え忍ぶ」べきであり(コロ1:11)、預言者たちやパウロを辛抱と「忍耐」の模範とすべきです(ヤコ5:10、2テモ3:10)。
 また、他人に対する「寛容さ・寛大さ」を意味します。神の豊かな慈愛と寛容と「忍耐」とを軽んじてはなりません(ロマ2:4)。神は「寛大な心」で耐え忍んでいるからです(ロマ9:22)。キリスト・イエスも限りない「忍耐」を示し、教会を迫害していたパウロを憐れみました(1テモ1:16)。それはパウロが永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためです。人が救われるのは神の忍耐によらなければならないからです。だからキリスト者は愛された者として「寛容」を身につけ(2コリ6:6、コロ3:12)、「忍耐」強く教えるべきです(2テモ4:2)。今週の朗読では、ノアの時代に示された神の人間に対する「忍耐」を表しています。遠い昔、人間との和解を求めて忍耐した神は、今や洗礼を通して、キリストの復活による救いを与えます。

 

 

今週の福音
マルコによる福音書 1章12―15節

 12それから、霊≠ヘイエスを荒れ野に送り出した
13イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
 14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
今週の福音 

  誘惑を受ける・ペイラゾー

 この語はまず「何かをしようと試み、努力する」を意味します。回心後、エルサレムに来たパウロは、弟子の仲間に加わろうと「試みた」と使徒言行録は書きます(使9:26)。
 しかし、多くの用例では宗教的な意味合いでの「試みる」を指します。イエスの敵対者が行ったように「その人の不利となるような証拠を引き出すために試みる」ことや(マコ8:11)、荒れ野のイスラエルが陥ったように「神に力があるかどうかを知るために能力を試す」こともありますが(1コリ10:9)、神やキリストが「試みる」こともあります(1コリ10:13)。しかし、それは神への信仰を表明する格好の機会になりえます(ヘブ11:37)。
今週の福音では、悪魔が「罪へと誘う」の意味です。マルコでは、マタイやルカとは違って、誘惑の手段を具体的に描写していないし、悪魔への勝利もほのめかされているにすぎません。マルコにとって、荒れ野は神的な力と悪魔的な力とがいまだに共存する場所であり、その意味で我々が生きる日常の象徴です。イエスと共に「荒れ野」を生きるとき、試みは神への信仰を告白する試練に変わります。



 

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