B年復活節第2主日
(主イエスの復活を証しし、イエスがメシアであると信じる人は、見ないのに信じる人)
第一朗読 使徒言行録4章32―35節 32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。 33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。 34信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。 |
第一朗読 使徒言行録4章32―35節 共有し・コイノス この語は「共通の・共有の」を意味し、新約聖書で合計14回使われます。しかし、そのうち10回は「汚れた」と訳されています。例えば、マコ7章で、イエスの弟子たちの中に「汚れた」手、つまり洗わない手で食事をするのを見たファリサイ派の人々は、掟に違反した行為として注意しています。 ユダヤ人たちが「汚れた」の意味でもこの語を使ったのは、彼らの宗教観と関係しています。祭儀的な清さを重視する彼らから見れば、公のものは「汚れた」ものと見なされたからです。ちなみに、ファリサイの語源は「(社会から)切り離された」ではないかとされます。 しかし、聖書も「共通の・共有の」の意味でこの語を4回使っています。テトスはパウロと信仰を「共に」する子であり(テト1:4)、ユダはキリスト者が「共に」あずかる救いについて手紙を書きます(ユダ3)。今週の朗読と使2:44では、すべての物を「共有し」ていた原始教会を描くために使われています。 清浄規定から解放された交わりが、キリストによって現実となったので、救いと信仰を「共にする」ものとして、すべての物を「共有する」ことが可能になりました。 |
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第二朗読 ヨハネの手紙 T 5章1―6節 1イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。 2このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。 3神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。 4神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 5だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。 6この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、霊≠ヘこのことを証しする方です。霊≠ヘ真理だからです。 今週の朗読はB年「主の洗礼」と重なっていますので、再掲載とさせていただきました。 |
第二朗読 ヨハネの手紙 T 5章1―6節 愛・アガペー ヨハネ文書(ヨハネ福音書とヨハネの手紙)によると、神の本質は「愛」にあり、その働きは「愛」に基づいています(1ヨハ4:8)。世を愛する神は、愛をもって赦すことを望んでおり、世がどんなに拒んでも、この愛を示そうと考えました(ヨハ3:16)。この神の愛はイエスが私たちのために命を捨てたことによって明らかにされました(1ヨハ3:1・16)。人はこの「愛」を見つめ、知ることによって救われます。 神とイエスは愛という関係にありますが、信じる者もこの愛の関係に含み入れられます(ヨハ14:21以下)。それでヨハネ文書では、「愛する」という動詞はその主語と目的語とを絶えず入れ替えて用いられており、父と子と信じる者とが、神の愛を共有しています。この神の愛に参与しなければ、人は死んでいます(1ヨハ3:14以下)。 この神の愛に参与する者として、兄弟同士が愛のうちに生きることになります(ヨハ13:34)。兄弟に対する愛は神の愛から生まれるのであり、兄弟を愛することがなければ、神との関係を保つことができないのです(ヨハ13:35)。 |
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今週の福音 ヨハネによる福音書 20章19―31節 19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 |
今週の福音 ヨハネによる福音書 20章19―31節 手・ケイル イエスは子供に「手」を置いて祝福し(マタ19:13)、病人をいやします。また、イエスは「手」を差し伸べて弟子に指示を与え(マタ12:49)、重い皮膚病をいやし(マタ八3)、水に沈みかけたペトロを救い出します(マタ14:31)。 また、イエスに「手」を取られて起こされると、ペトロの姑は熱が去り(マコ1:31)、会堂長の娘はよみがえり(マコ5:41)、目の不自由な者は見えるようになり(マコ8:23)、汚れた霊にとりつかれた子供が自由になります(マコ9:27)。 このように「手」を通して実現するイエスと人々との交わりは、父なる神とイエスとの交わりに基づいています。というのは、イエスはその霊を御父の「手」にゆだね(ルカ23:46)、神はすべてを御子の「手」にゆだねており(ヨハ3:35)、この御父と御子の交わりに招かれた人々をイエスの「手」から奪い取るものは誰もいないからです(ヨハ10:28)。 復活したイエスの「手」には、人々の罪(神を信じきれない闇)をあがなうために受けた傷がありました。その「手」が示されたとき、トマスは試すことなく、信じる者に変えられました。五感を超えた交わりに気づかされたからです。 |