B年年間第19主日
食べ物に力づけられた彼は神に愛されている子供ですから永遠に生きる

第一朗読
列王記上19章4―8節

4 彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
5 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」
6 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。
7 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。
8 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
第一朗読 
列王記上19章4―8節

   もう十分です・ラヴ

 この語はまず「量が多い」ことを意味します。シェバの女王は「多くの」金と宝石をらくだに積んでソロモンのもとに来ました(王上10:2)。ギデオンには「大勢の」妻がいました(士8:30)。
 次に「大きい」を意味します。シオンの山は「力ある」王の都です(詩48:3)。また、「大きな」隔たりを表すこともできます(サム上26:13)。
 しかし、今週の朗読のように「十分だ」の意味にもなります。生き別れになっていた息子ヨセフがエジプトで生きているのを知ったヤコブは「<よかった>。息子ヨセフが生きていたとは」(創45:28)と述べて、エジプトに旅立ちます。この場合には喜びが非常に大きかったことを表しています。
 また、神は民に下した災いを思い返し、民を滅ぼそうとする御使いに「もう<十分だ>。その手を下ろせ」と命じます(サム下24:16)。今週の朗読では、バアル礼拝者との抗争に疲れたエリヤが「もう<十分です>」と言って、死を求めています。この二つの用例では、災いや疲労が限度を超える大きさに達したことを意味しています。
 

 

第二朗読
エフェソの信徒への手紙 4章30―5章2節

30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。
31 無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。32 互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
第二朗読 
エフェソの信徒への手紙 4章30―5章2節

   親切な・クレーストス

 この形容詞は「役に立つ、目的に適った、良い」を意味し、新約聖書では7回用いられています。
 まず、事物に用いられ「柔らかい、優しい、楽な、心地よい」を意味します。新しいぶどう酒よりも、古いぶどう酒が「よい」と言われ(ルカ5:39)、イエスのくびきは「負いやすく」、それを負うなら安らぎを得ることができます(マタ11:30)。さらに、道徳的に「良い、正しい」の意味でも用いられます。パウロは格言を引用して、悪いつきあいは、「良い」習慣を台なしにする、と教えます(1コリ15:33)。
 次に、「親切な、愛情の深い」を意味します。キリスト者が敵への愛を求められるのは、神が恩を知らない者にも悪人にも「情け深い」からであり(ルカ6:35)、神の「憐れみ」が悔い改めへと人を導きます(ロマ2:4)。
 今週の朗読では、互いに「親切に」することが命じられています。神が私たちに情け深く、憐れみをかけたから、私たちは互いを思いやることができます。私たちが「親切で」あるなら、神の親切を知らせることができるのです。
 

 

今週の福音
ヨハネによる福音書 6章41―51節

41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め
42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
48 わたしは命のパンである。
49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。
50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。
51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
今週の福音 
ヨハネによる福音書 6章41―51節

   つぶやく・ゴンギュゾー

 この語は「ある人物に対する期待が裏切られて、不満を口にする」といった意味であり、場合によって、「だから、彼はその地位や職にふさわしくないと思う」といった強い意味にもなります。
朝から働いたのに、一デナリオンしかもらえなかった労働者は主人に「不平を言う」ことになりました(マタ20:11)。また、イエスに「つぶやいた」のは、罪人と食事をとっているのを目にしたファリサイ派の人々でした(ルカ5:30)。清く正しく生きている者が救いに近いと考える彼らには、イエスの行動が理解できなかったからです。
今週の福音では、「わたしは天から降って来たパンである」と語るのを聞いたユダヤ人がイエスに「つぶやく」ことになりますが、彼らは「これはヨセフの息子のイエスではないか、我々はその父も母も知っている」との思いから抜け出すことができなかったからです。
神は人間の期待通りに行動するとはかぎりません。自分の思いに固執するなら、「つぶやく」ことになりかねません。



 

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