B年年間第20主日
浅はかさを捨て、命を得るために父である神に感謝しこのパンを食べる

第一朗読
箴言 9章1―6節

1 知恵は家を建て、七本のを刻んで立てた。
2 獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え
3 はしためを町の高い所に遣わして
   呼びかけさせた。
4「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」
   意志の弱い者にはこう言った。
5「わたしのパンを食べ
   わたしが調合した酒を飲むがよい
浅はかさを捨て、命を得るために
   分別の道を進むために。」
第一朗読 
箴言9章1―6節

   柱・アッムード

この語は動詞アーマド〈立つ・立てる〉から派生した名詞であり、領主の館の「」や(士16:25以下)、ソロモン神殿(王上7:2以下)やエゼキエルが幻のうちに見た新しい神殿の「柱」を意味します(エゼ42:6)。建物だけでなく、大地にも「柱」があり、それを固めているのは神です(詩75:4)。
エジプトから脱出する民を導いたのは、昼は雲の「柱」であり、夜は火の「柱」でしたが(出13:21-22)、これが神の顕現を表す象徴であるのは明らかです(民14:14、ネヘ9:12)。神は雲の「柱」から語りかけ(詩99:7)、掟と定めを与えます。
おそらく、普通の民衆の家は柱のない、あっても一本程度の家でしょうから、「柱」を持った建物と言えば、館や宮殿や神殿のような、並はずれて立派な建築物だったに違いありません。
ですから、今週の朗読のように「七本の柱」のある家と言えば、立派で堅固な家の象徴になります。この場合、「七本」は完全さを表す象徴です。知恵に従うことが、命への道であることをこのような比喩で教えています。
 

 

第二朗読
エフェソの信徒への手紙 5章15―20節

15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。
16 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。
17 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい
18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、
19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
第二朗読 
エフェソの信徒への手紙 5章15―20節

   悟る・シュニーエーミ

 新約聖書では26回用いられますが、用例のほとんどは共観福音書と使徒言行録に見られます。この動詞は「理解する、悟る、見抜く」を意味します。
 モーセは自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしていることを、兄弟たちが「理解してくれる」と思いましたが、彼らは「理解してくれ」ませんでした、とステファノは説教します(使7:25)。
 イエスはたとえで群衆に話しましたが、それは彼らが見ても見ず、聞いても聞かず、「理解でき」ないからです(マタ13:13)。また、パンの出来事を「理解せ」ず、心の鈍くなっていた弟子たちは、イエスが湖を歩き、舟に乗ると、嵐がおさまったことに驚きました(マコ6:52)。そこで、復活したイエスは弟子たちに聖書を「悟らせる」ために彼らの心の目を開きました(ルカ24:45)。
 神の言葉は出来事を通して人間に示されますが、その真意を知るには、出来事の向こう側に働く神の力を「見抜く」ことが必要です。イエスはそのために弟子の心の目を開きました。霊に満たされるなら、主の御心を「悟る」ための力が与えられる、と今週の朗読は教えます。
 

 

今週の福音
ヨハネによる福音書 6章51―58節

 51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
今週の福音 
ヨハネによる福音書 6章51―58節

   食べる・トローゴー

 この語は「かじる・音を立てて食べる」を意味します。いくぶん低俗な響きを持った言葉であり、餌を食べる動物に使われていました。新約聖書での用例は6回であり、そのうち5回はヨハネ福音書で使われています。
 今週の福音では、節以前の「食べる」は最も一般的な動詞エスシオーですが、節以降、節「先祖が<食べた(エスシオー)>のに死んでしまった」をのぞく、他の「食べる」は四つともこの語トローゴーの現在分詞形です。
54節以降、なぜ動詞が変えられているのか気になります。後期ヘレニズム期の通俗ギリシア語では、エスシオーの現在形の代用として使われることがあるので、ここもその例の一つだと見ることもできます。しかし、51節後半から聖餐との関連が明白になるので、「(イエスを)食べる」とは「イエスの言葉を理解する」といった比喩的な意味では終わらず、イエスの体(ご聖体)を実際に「食べる」ことを表現したかったのだと思われます。



 

今週の朗読のキーワードに戻る