B年年間第24主日
(主なる神が助けてくださるから、自分の信仰を見せ、福音のために命を失う)
第一朗読 イザヤ書 50章5―9a節 5 主なる神はわたしの耳を開かれた。 わたしは逆らわず、退かなかった。 6 打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 7 主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。 わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている わたしが辱められることはない、と。 8 わたしの正しさを認める方は近くいます。 誰がわたしと共に争ってくれるのか われわれは共に立とう。 誰がわたしを訴えるのか わたしに向かって来るがよい。 9a 見よ、主なる神が助けてくださる。 誰がわたしを罪に定めえよう。 |
第一朗読 罪に定める・ラーシャ この動詞はカル形でも使いますが、多くはこの箇所のようにヒフィル形で使い、@「悪を行う」のほかに、A「罪ありとする・罪に定める」を意味します。 詩106:6「わたしたちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、<主に逆らった>」では@の意味です。しかも、この語が「主に逆らった」と訳されているのは、社会における諸関係を破壊する行為としての悪行も、もとをただせば、神への反逆から起こると見られているからです。 申25:1「二人の間に争いが生じ、彼らが法廷に出頭するならば、正しい者を無罪とし、悪い者を<有罪とする判決が下されねばならない>」ではAの意味で使われています。このように正しい裁判が求められているのは、主は正しい人が悪人の手中に陥って裁かれ「罪に定められる」ことを許さない神だからです(詩37:33)。それは箴12:2が「善人は主に喜び迎えられるが、悪だくみをする者は罪ありとされる」と述べていることからも明らかです。 今週の朗読でもAの意味で使われています。第二イザヤは神の義を信じているので、迫害に耐えることができます。 |
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第二朗読 ヤコブの手紙 2章14―18節 14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。 15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、 16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。 17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。 18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。 |
第二朗読 死んだ・ネクロス 新約聖書の多くの用例では、イエスの復活によって、死はもはや人間の最後の状態ではなくなったことが述べられます。宣教を始めた使徒たちは、神はイエスを「死者」のうちから復活させたと証言し(使3:15、4:10、10:41、13:30、34)、イエスの復活によってすべての死者の復活が確実であると宣言します(ロマ4:17、24、1コリ15:12以下)。 この語がもともと意味していた「死」の領域は、キリストによって死が無力となったことを信じる信仰に立つなら、もはや存在しないことになりました。ヘブライ人への手紙は、キリストを信じない人間が自らの義を求めて行う業を「死んだ」行いと呼び、その虚しさを指摘します(ヘブ6:1、9:14)。 今週の朗読は、神の憐れみを受けて救われた者として生きるための行いを強調し、そのような行いを欠く信仰を「死んだもの」とします(ヤコ2:17、26)。憐れみの行いを欠く信仰は、終わりの日の救いに役立たないからです。神の憐れみを現したキリストと共に、憐れみを与えないなら、復活の命もまた私たちから離れてゆきます。 |
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今週の福音 マルコによる福音書 8章27―35節 27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。 28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」 30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。 31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 |
今週の福音 捨てる・アパルネオマイ この語は動詞アルネオマイ〈相手の言うことを否定する〉の強調形であり、「誰かを否定する・拒絶する(=その人との関わりを拒み、関係を切る)」ことを表します。 この語は11回使われますが、そのうち8回は受難物語での用例です。最後の晩餐を終え、ゲツセマネに向かう途中、イエスはペトロの振る舞いを予告して、鶏がなく前に三度もイエスを「知らないと言う」と述べると、ペトロは一緒に死なねばならなくなっても、イエスを「知らないなどとは申しません」と断言します(マコ14:30―31)。しかし、人々にイエスとの関係を問い詰められたとき、イエスを「知らない」と言い逃れようとしました(マコ14:72)。 今週の福音では、自分自身を「捨て」、自分の十字架を背負って、イエスに従うことが求められています(マタ16:24でも)。ここでは「自分の利害や思いとの関係を拒絶する」の意味ですが、それはイエスの十字架に現された神の思いに身を明け渡すためです。 |