B年年間第25主日
本当に神の子なら平和のうちに蒔かれすべての人に仕える者になりなさい

第一朗読
知恵の書 2章12、17―20節

12 神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。
     我々のすることに反対し、
     律法に背くといって我々をとがめ
     教訓に反するといって非難するのだから。
17 それなら彼の言葉が真実かどうか見てやろう。
     生涯の終わりに何が起こるかを確かめよう。
18 本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ。
     敵の手から救い出されるはずだ。
19 暴力と責め苦を加えて彼を試してみよう。
     その寛容ぶりを知るために、
     悪への忍耐ぶりを試みるために。
20 彼を不名誉な死に追いやろう。
     彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。
第一朗読 

   神の助け・エピスコペー

 この語は基本的には「視察・監視」を意味します。ヨブ10:12「わたしに命と恵みを約束し、あなたの<加護>によってわたしの霊は保たれていました」の傍線部の七十人訳は名詞エピスコペーを用いています。また創50:24に「神は<必ず>あなたたちを<顧みてくださる>」とありますが、傍線部の七十人訳は、名詞エピスコペーと同根の動詞エピスコペオーの組み合わせになっています。
 これらの箇所から分かるように、エピスコペーはだいたいは「神的な力が良いものをもたらすため到来すること」を表します。今週の朗読でもこの意味で使われています。しかし、その到来が喜びとはならないこともあります。エレ10:15「彼らは空しく、また嘲られるもの、<裁きの>時が来れば滅びてしまう」の傍線部の七十人訳はこの語を用いています。
 さらにこの語は「管理者・視察する者」を表すこともあります。詩109:8「彼の生涯は短くされ、<地位>は他人に取り上げられ」の傍線部の七十人訳はこの語です。新約聖書の後期文書ではこの語は「(教会の)監督」を表す言葉としても使われます(1テモ3:1)。
 

 

第二朗読
ヤコブの手紙 3章16節―4章3節

 16 ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。
17 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。
18 義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。
 1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。 
2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、
3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。
第二朗読 

   ねたみ・ゼーロス

 新約聖書では16回用いられ、良い意味では「熱意、熱心」を、悪い意味では「ねたみ、嫉妬」を表します。
 まず、良い意味では、神への思いや教会の仲間への思いを表します。パウロは「熱心さ」の点では教会の迫害者でしたが(フィリ3:6)、ユダヤ人が「熱心に」神に仕えているのは正しい認識に基づくものではないと述べます(ロマ10:2)。今や、パウロは神が抱いている「熱い思い」をコリントの人々に抱いており(2コリ11:2)、コリントの人々が示した献金への「熱意」はマケドニアの人々を奮い立たせました(2コリ9:2)。また、真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯すなら、神は裁きの手をゆるめず「激しい」火をもたらします(ヘブ10:27)。
 次に、大祭司とサドカイ派の人々は「ねたみ」に燃えて、使徒を牢に入れましたが(使5:17)、「ねたみ」はキリスト者が捨て去るべきものです(ロマ13:13)。今週の朗読も、「ねたみ」は混乱や悪い行いを生むと警告しています。熱意が誤って「ねたみ」とならないために、神から与えられる知恵に満たされるように祈り求める必要があります。
 

 

今週の福音
マルコによる福音書 9章30―37節

 30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
 33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
今週の福音 

   後の・エスカトス

 この語はまず、「場所における最後」を表します。宴会の場での「最後の」場所といえば、主人から一番遠い末席のことです(ルカ14:9)。また、聖霊を受けた使徒は地の「果て」までイエスを証しします(使1:8)。
 次に、時間に使われ「最終の・最後の」を表します。ぶどう園の主人は最初に来た者と同じ賃金を「最後に来た者」にも支払いました(マタ20:8)。アダムはその後の人のあり方に影響を与えた「最初の人」ですが、イエスは「最後の」アダムであり、アダム以上に強力な影響を人にもたらしました(1コリ15:45)。「最後の」日とか、時代の「終わり」といえば、終末を表します(ヨハ6:39、ヘブ1:2など)。
 今週の福音のように、この語は等級や序列の「最後」を表し、「最小の・最も価値のない」の意味で使われます。神は使徒を「最後に引き出される者」とし、世界中の見せ物としました(1コリ4:9)。また、弟子はすべての人の「後に」なり、仕える者となるべき人たちです。



 

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