C年年間第2主日
主があなたを望まれ一人一人に霊≠フ働きが現れ栄光を現された

第一朗読
イザヤ62章1―5節

1 シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
   エルサレムのために、わたしは決して黙さない。
   彼女の正しさが光と輝き出で
   彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
2 諸国の民はあなたの正しさを見
   王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
   主の口が定めた新しい名をもって
   あなたは呼ばれるであろう。
3 あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり
   あなたの神の御手の中で王冠となる。
4 あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく
   あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。
   あなたは「望まれるもの」と呼ばれ
   あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。
   主があなたを望まれ
   あなたの土地は夫を得るからである。
5 若者がおとめをめとるように
   あなたを再建される方があなたをめとり
   花婿が花嫁を喜びとするように
   あなたの神はあなたを喜びとされる。
第一朗読 イザヤ62章1―5節

 口を閉ざす・ハーシャー

 この語は基本的には非活動的な状態を表し、「静まる」の意味です。波の活動について使われ、波が「おさまった」という用例もありますが(詩107:29)、多くは言葉を語る口に使われ、「黙る・口を閉ざす」の意味になります。
 この語は16回しか使われませんが、この語をもっとも多く用いるのは第三イザヤ(イザヤ56―66章)です。エルサレムに帰還し、神殿を再建しても、栄光が見えないのは、神に力がなく「沈黙している」からだと考え、神から離れて自分中心の生き方に走る者がいます(イザ57:11)。しかし、民を襲う苦悩は神の沈黙の結果ではなく、民の罪が招いたことです。今は、神は介入の頃合をはかって沈黙していますが、第三イザヤはシオンに救いが燃え上がるまで「わたしは口を閉ざさない」と誓い(イザ62:1)、城門に見張りを立て、叫ばせます(62:6)。神はそれに答えて、「わたしは黙す」ことなく、必ず報いると介入を宣言します(イザ65:6)。
 神の沈黙は苦悩をもたらしますが、それは神の無力さの現れでなく、はびこる罪を見た神の戸惑いなのです。
 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙一 12章4―11節

賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
一人一人に霊≠フ働きが現れるのは、全体の益となるためです。
8 ある人には霊≠ノよって知恵の言葉、ある人には同じ霊≠ノよって知識の言葉が与えられ、
9 ある人にはその同じ霊≠ノよって信仰、ある人にはこの唯一の霊≠ノよって病気をいやす力、
10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
11 これらすべてのことは、同じ唯一の霊≠フ働きであって、霊≠ヘ望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
第二朗読 コリントの信徒への手紙一 12章4―11節

 賜物・カリスマ

 この語は「(好意によって授けられた)贈り物、賜物」を意味します。新約聖書ではもっぱら神からの賜物を表し、パウロが最も多く用いていますが、福音書には用例がありません。
 まず、個人ではなく、広く一般的に与えられた「賜物」を表します。イスラエル民族に特権として与えられた神の「賜物」と招きとは取り消されることがないから、ユダヤ人もやがて救いに招き込まれます(ロマ11:29)。「恵みの賜物」と罪とは比較にならない力を持っているので、「恵み」が働くときには、無罪の判決が下されます(ロマ5:15、16)。
 次に、今週の朗読にあるように、一つの霊から、恵みとして与えられる様々な「賜物」を表します。パウロは、内的および外的な共同体生活に必要な働きを「賜物」と呼びます。宣教の賜物としての預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善は、それぞれが与えられた恵みによって授かった「賜物」です(ロマ12:6―8)。パウロにとって、恵みの賜物を持たないキリスト者はありえません。これらの賜物はすべてが全体のために必要な、欠けてはならない恵みです。

 

 

今週の福音
ヨハネによる福音書 2章1―11節

1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。 わたしの時はまだ来ていません。」
5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
今週の福音 ヨハネによる福音書 2章1―11節

 時・ホーラー

 この語は(1)「昼間・一日」の意味でも、(2)「時間・時刻」の意味でも使われますが、(3)イエスが「わたしの時はまだ来ていません」と述べるときのように、「特定の出来事と結びついた時」をも表します。
その場合、その時を特徴づける出来事を表す表現と一緒に使われます。それは「宴会の時刻」(ルカ14:17)であったり、「父を礼拝する時」(ヨハ4:21)であったり、「死んだ者が神の子の声を聞く時」(ヨハ5:25)であったり、「あなたがたが眠りから覚めるべき時」(ロマ13:11)です。さらに、「終わりの時」(1ヨハ2:18)、「試練の時」(黙3:10)、「裁きの時」(黙14:7)などです。
特にヨハネ福音書では、イエスの「時」という表現が多く見られます。これはイエスがその死によって神の栄光を現す「時」を指します。この「時」が来るまでは、イエスに手をかける者は現れませんが(7:30)、この栄光の「時」が来たとき、イエスはこの「時」から救ってください、と祈ります(12:23・27)。

 

 

 

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