C年年間第8主日
実を見れば明らかなように主に結ばれているなら良い実を結ぶ

第一朗読
シラ書 27章4―7節

4 ふるいを揺さぶると滓が残るように、
  人間もをすると欠点が現れてくるものだ。
5 陶工の器が、かまどの火で吟味されるように、
   人間は論議によって試される。
6 樹木の手入れは、実を見れば明らかなように
   心の思いは話を聞けば分かる。
を聞かないうちは、人を褒めてはいけない。
   言葉こそ人を判断する試金石であるからだ。
第一朗読
シラ書 27章4―7節

 話・ロギスモス

 この語は七十人訳(前2―1世紀にギリシア語に訳された旧約聖書)では、121回使われるが、ヘブライ語の対応語が見出されるのは26箇所にすぎず、ヘレニズムになって多用されることになった言葉だと言えます。
 この語は「考え企て」と訳されますが、人間に使われると、ほとんど悪い意味になります。死すべき人間の「考え」は浅はかであり(知9:14)、正気の沙汰とは思えない「考え」のこともあります(知19:3)。よこしまな「考え」は人を神から遠ざけますが(知1:3)、人を教え導く聖なる霊は愚かな「考え」から遠ざかります(知1:5)。しかし、神は人間の「思い」は悪く、永久に変わらないことを知っていますが、徐々に罰を加えることによって、悔い改めの機会を作っています(知12:10)。「話し」はその人の欠点をあらわにすることがあるから、「話し」を聞くまでは、人をほめるべきではありません(シラ27:4・7)。
 しかし、神に使われることもあります。人間の心すら見通せない我々ですから、万物を造られた神の「考え」を理解することは不可能です(ユディ8:14)。
 

 

第二朗読

コリントの信徒への手紙一 15章54―58節

54 この朽ちるべきものが朽ちないものを、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
「死は勝利にのみ込まれた。
55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

第二朗読 
コリントの信徒への手紙一 15章54―58節

 着る・エンデュオー

 この動詞は、まず能動態では「衣服を着せる」の意味で用いられます。息子を迎えた父親は僕たちに、急いで一番良い服を持って来て、この子に「着せなさい」と命じ(ルカ15:22)、兵士たちはイエスを侮辱したあげく元の服を「着せ」ました(マタ27:31並行)。
 次に、中動態では「着る、身に着ける」を意味します。イエスは、自分の体のことで何を「着よう」かと思い悩むなと教え(マタ6:25並行)、弟子を宣教に送り出すとき、下着は二枚「着て」はならないと命じました(マコ6:9)。
 また、転義して、資格、徳、意向などを着物のように「着る、引き受ける」の意味で用いられます。イエスは弟子たちに高い所からの力に「覆われる」までは都にとどまるよう指示し(ルカ24:49)、パウロは主イエス・キリストを「身にまといなさい」と命じます(ロマ13:14)。
 今週の朗読では、朽ちるべきものが朽ちないものを「着」、死ぬべきものが死なないものを「着る」と述べられています。このような希望を持てるのは、洗礼によってキリストと結ばれ、キリストを「着ている」からです(ガラ3:27)。
 

 

今週の福音

ルカによる福音書 6章39―45節

39 イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。
40 弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。
41 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
42 自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
43「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。
44 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。
45 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」

今週の福音
ルカによる福音書 6章39―45節

 十分に修行を積む・カタルティゾー

 この語は基本的には適切なものにする・ふさわしくする」を意味します。神が「備える・創造する」を表すこともありますが(ヘブ11:3、ロマ9:22)、普通には「整理する・修復する・元どおりにする・完成させる」の意味で使われます。
 漁の終わった漁師は舟の中で網の「手入れをします」(マコ1:19)。しかし、手入れをしなければならないのは魚網だけでなく、人の生き方や信仰も含まれます。罪に陥った兄弟がいれば、柔和な心で「正しい道に立ち返らせる」べきだし(ガラ6:1)、信仰が欠けている人がいれば、それを「補う」必要があるし(1テサ3:10)、仲たがいせずに心と思いを一つにして「固く結び合う」者になる努力が欠かせません(1コリ1:10)。
 今週の朗読では、受動形で使われ、新共同訳は「十分に修行を積む」と訳しています。これは再帰的用法の受動形と見たからで、もし神的受動形と解釈すれば、「神によって十分に教えられる」の意味になります。


 

 

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