C年四旬節第5主日
(この民をわたしのために造り、キリスト・イエスによって上に召し、罪に定めない)
第一朗読 イザヤ書 43章16―21節 |
第一朗読 イザヤ書 43章16―21節 あがめる・キッヴェード この語はカーヴェード〈重い〉のピエル形で「重くする」を意味します。サム上六6に「なぜ、あなたたちは、エジプト人とファラオがその心を〈固くした〉ように、心を〈固くする〉のか」とあるように、心を「重くする(=固くする)」とは、出来事の意味を理解しようとしない頑なさを意味します。 しかし、この用例をのぞけば、良い意味で「重くする」、つまり「栄誉を帰す・あがめる」ことを表します。人はその両親を「敬い」(出20:12、申5:16)、安息日を「尊ぶ」ことが大事ですが(イザ58:13)、なによりも神を重んじることが大切です。それは「わたしを〈重んずる者〉をわたしは〈重んじ〉、わたしを侮る者をわたしは軽んずる」と神が宣言されたからです(サム上2:30)。 そこで、嘆きを聞かれた者は「ヤコブの子孫は皆、主に〈栄光を帰せよ〉」と呼びかけ(詩22:24)、神は「告白をいけにえとしてささげる人はわたしを〈栄光に輝かすだろう〉」と応じます(詩50:23)。 今週の朗読で動物が神を「あがめる」と歌われたのは、それほどに大きく重い出来事が起こるからです。 |
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第二朗読
フィリピの信徒への手紙 3章8―14節 |
第二朗読 フィリピの信徒への手紙 3章8―14節 走る・ディオーコー この動詞は今週の朗読の12節と14節に用いられています。まず、「急ぐ、走る、押し進む」を意味しますが、14節では、継続を表す時制なので「ひたすら走る」と訳されています。 次に、「迫害する」を意味します。キリスト者はイエスのためにののしられ「迫害される」とき、幸いであり(マタ5:11)、敵を愛し、自分を「迫害する者」のために祈ります(マタ5:44)。かつてパウロは熱心さの点では教会の「迫害者」でしたが(フィリ3:6)、回心した後は、「迫害されては」耐え忍び(1コリ4:12)、自分を「迫害する者」のために祝福を祈ります(ロマ12:14)。 さらに、「追い払う、追い出す」(マタ23:34)、また「追いかける、追跡する」の意味でも用いられ(ルカ17:23)、後者は転義して、「追求する、努力する、切望する」を意味します(ロマ14:19、1コリ14:1)。12節ではこの意味にとって「努めている」と訳されていますが、14節と同じように、「何とかして捕らえようとひたすら走っている」と訳すこともできます。パウロは自分を捕らえたイエスを追い求めて、走り続けます。 |
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今週の福音
ヨハネによる福音書 8章1―11節 |
今週の福音 ヨハネによる福音書 8章1―11節 姦通をする・モイケウオー 姦淫は「既婚者が配偶者以外の異性と性交渉を持つこと」で、健康を冒涜する行為とされ、石打ちの刑が科せられることになっていましたが(申22:22以下)、実際には死刑に替わる刑が執行されていたようです(エレ3:8)。 神が与えた律法を根本から見直そうとするイエスは、時には離婚の場合のように、当時の一般的な解釈を否定し、より厳しい態度を求めることがあります。姦淫についてもそれが当てはまります。性行為に至らなくても、みだらな思いで他人の妻を見ることがすでにその女性を犯したことになるとイエスは説きます(マタ5:27―28)。パウロも口で「姦淫するな」と説きながら、それを守らず「姦淫を行う」ユダヤ人を非難しています(ロマ2:22)。 イエスが姦淫や離縁に関して厳しい見方を取っているのは確かですが、法的な拘束力を押し立てて守らせようとはしていません。今週の福音からも分かるように、神の愛に気づくことが、人を罪から遠ざける力となるからです。 |