C年復活節第2主日
人々を連れて集まって来て生きている者であるイエスの名により命を受ける

第一朗読


使徒言行録 5章12―16節

12 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。一同は心を一つにしてソロモンの回廊に集まっていたが、
13 ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。
14 そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。
15 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてそのだけでも病人のだれかにかかるようにした。
16 また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。

第一朗読

影・スキアー

 この語はまずは「(物の)陰」を意味します。小さなからし種も成長するとどんな野菜よりも大きくなり、その葉の「」に鳥が巣を作るほどになります(マコ4:32)。さらに比喩的な意味で使われると、「死の<陰>」を表します。イエスは、「死の<陰>」に座していた者を照らすあけぼのの光であり、人々を罪と死から解放しました(ルカ1:79、マタ4:16)。
さらにこの語は「実体からは区別される似姿・影」をも表します。コロサイの偽の教師は食べ物や飲み物、また祭りや安息日についての規則を救いに必要な条件として教えているけれども、それらの規則は「やがて来るものの<影>」にすぎないのであり、救いの実体はキリストにあります(コロ2:17)。また、モーセによる幕屋の聖所は天の聖所の「影」にすぎないし(ヘブ8:5)、律法にはやがて来る良いことの「影」があるだけで、実体はありません(ヘブ10:1)。
 今週の朗読では最初の意味で使われ、ペトロが作り出す「陰」を指しますが、この陰は神の働きを写す「影」なのであり、ペトロを通して働く神がいやしを行います。

 

 

第二朗読

ヨハネの黙示録 1章9―11・12―13・17―19節

9 わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。
10 ある主の日のこと、わたしは霊≠ノ満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。
11 その声はこう言った。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ。」
12 わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、
13 燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。
17 わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、
18 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。
19 さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。

第二朗読


恐れる・フォベオマイ

 この動詞は、まずは、「恐れる、こわがる」を意味し、さらに、神的な啓示に直面した人間の畏れを表します。主の天使は「恐れずに」マリアを妻に迎えよ、とヨセフに言い(マタ1:20)、ユダヤ教の指導者たちは、民衆の支持を集めるイエスを「恐れました」(マコ11:18)。主の天使の顕現に接したザカリアや主の栄光を目の当たりにした羊飼いたちには天使が「恐れるな」と言い(ルカ1:13、2:10)、湖上を歩くイエスを見ておびえる弟子たちにはイエスが「恐れることはない」と話しかけました(マタ14:27並行)。イエスは、娘の死を知らされた会堂長にも「恐れることはない」と言って、信仰を求めます(マコ5:36並行)。
 次に、「敬う、尊敬する」を意味します。神を「畏れる」人はどんな国の人も神に受け入れられ(使10:35)、主を「畏れる」者にその憐れみは及びます(ルカ1:50)。
 今週の朗読では、神的な存在に出会って、畏怖で気を失って倒れたヨハネに、人の子が「恐れるな」と言います。神の力が顕されるのは、人に滅びることのない永遠の命を与えるためだからです。

 

 

今週の福音

ヨハネによる福音書 20章19―31節

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20 そう言って、とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方のに釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、このをそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしのを見なさい。また、あなたのを伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

今週の福音


手・ケイル

 イエスは子供に「」を置いて祝福し(マタ19:13)、病人をいやし、「」を差し伸べて弟子に指示を与え(マタ12:49)、水に沈みかけたペトロを救い出します(マタ14:31)。
 また、イエスに「手」を取られるとき、ペトロの姑は熱が去り(マコ1:31)、会堂長の娘はよみがえり(マコ5:41)、汚れた霊にとりつかれた子供が自由になります(マコ9:27)。
 このように「手」を通して実現するイエスと人々との交わりは、父なる神とイエスとの交わりに基づいています。というのは、イエスはその霊を御父の「手」にゆだね(ルカ23:46)、神はすべてを御子の「手」にゆだねており(ヨハ3:35)、この御父と御子の交わりに招かれた人々をイエスの「手」から奪い取るものは誰もいないからです(ヨハ10:28)。
 復活したイエスの「手」には、人々の罪をあがなうために受けた傷がありました。その「手」が示されたとき、トマスは試すことなく、五感を超えた交わりに気づかされ、信じる者となります。


 

 

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