C年三位一体の主日
主の御前で楽を奏し苦難をも誇りとし真理をことごとく悟る

第一朗読


箴言 8章22―31節

22 主は、その道の初めにわたしを造られた。
  いにしえの御業になお、先立って。
23 永遠の昔、わたしは祝別されていた。
  太初、大地に先立って。
24 わたしは生み出されていた
  深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。
25 山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが
  わたしは生み出されていた。
26 大地も野も、地上の最初の塵も
  まだ造られていなかった。
27 わたしはそこにいた
  主が天をその位置に備え
  深淵の面に輪を描いて境界とされたとき
28 主が上から雲に力をもたせ
  深淵の源に勢いを与えられたとき
29 この原始の海に境界を定め
  水が岸を越えないようにし
  大地の基を定められたとき。
30 御もとにあって、わたしは巧みな者となり
  日々、主を楽しませる者となって
  絶えず主の御前で楽を奏し
31 主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し
  人の子らと共に楽しむ。

第一朗読

楽を奏する・サーハック

 この語は基本的には「笑う」を意味します。しかし、人間にとって、笑いは涙と共に最も基本的な感情ですから、文脈に応じてさまざまな意味合いを表すことになります。
アブラハムもサラも、子供の誕生を予告されて「笑った」のは、嬉しかったからではなく、とても信じられなかったからです(創17:17、18:12)。イシュマエルはイサクを「からかい」(創21:9)、金の子牛を作った民は、座って飲み食いし、立っては「戯れました」(出32:6)。ヨセフに言い寄って拒絶された女性は、彼が自分に「いたずらしようとした」と言いふらします(創39:14・17)。
 しかし、知恵に満ちた有能な妻は未来に「ほほえみかけ」(箴31:25)、ヨブも確信を失った者に対して「笑顔を向け」励ましました(ヨブ29:24)。
怪獣レビヤタンも今は海に「戯れ」(詩104:26)、新しい契約が現実となるとき、おとめイスラエルは太鼓をかかえ、「楽を奏する人々」と共に踊り出ることになります(エレ31:4)。今週の朗読でも、神の創造の業を目にする知恵の喜びを表しています。

 

 

第二朗読

ローマの信徒への手紙 5章1―5節

1 このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
2 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
3 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
4  忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
5  希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

第二朗読


忍耐・ヒュポモネー

 接頭辞ヒュポ〈下に〉と動詞メノー〈留まる〉の合成動詞ヒュポメノー〈留まる、忍耐する〉の名詞形であり、ある特定の状況から離れずに、忍耐することを意味します。古典ギリシア語の「忍耐」は、よい意味では、災厄や困難に対する不屈の忍耐を、悪い意味では、屈辱や害悪を甘受することを表します。しかし、聖書では、神の救いを待ち望むことから生じる忍耐を表し、神を信じて生きる人間の根本的な態度として、常に積極的な意味で用いられます。
 立派な心で御言葉を聞き、守り、「忍耐」する者は実を結び(ルカ8:15)、イエスは、髪の毛の一本もなくならない、と言って救いを約束し、「忍耐」によって命をかち取るようにと教えました(ルカ21:19)。
 パウロが述べるように、キリストの死と復活に示された栄光にあずかる希望を持っているキリスト者にとって、「忍耐」は単なる我慢ではなく、常に救いへの希望と結びついています(ロマ8:25、1テサ1:3)。ですから、キリスト者は愛や信仰や慰めとともに、「忍耐」を学び、追い求めてゆきます(ロマ15:4)。

 

 

今週の福音

ヨハネによる福音書 16章12―15節

12「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

今週の福音


導く・ホデーゲオー

 この語は名詞ホデーゴス〈道案内人・指導者〉から派生した動詞で、文字通りには「道案内をする・導く」を意味します。
 まず、マタ15:14「盲人が盲人の<道案内をすれば>、二人とも穴に落ちてしまう」では、文字通りの意味で使われています。同じ用法は黙7:17「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ<導き>、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」に見られます。
 転義して使われれば、「指導する・手ほどきして教える」の意味になります。たとえば、使8:31「<手引きしてくれる人>がなければ、どうして分かりましょう」では、文字通りの道案内ではなく、聖書の言葉の理解のために手引きするの意味です。
今週の福音でも転義した意味で使われています。真理の霊(弁護者)が人を真理へと導けるのは、御父と御子から聞いたことを語るからです。聖霊は弁護者であり、真理の霊ですが、この聖霊によって、神は人々を命の泉へと導きます。


 

 

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