C年洗礼者ヨハネ
イスラエルを集めるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え主の力が及んでいた

第一朗読


イザヤ 49章1―6節

1 島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
2 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
3 わたしに言われた
 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
4 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。
 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。
5 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。
 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために
 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主は
6 こう言われる。
 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。
 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

第一朗読

しかし・アーヘーン

 この副詞は「きっぱりとした断言」を表します。ハランへと向かうヤコブが石を枕にして過ごした夜、夢の中で神のお告げを聞いて目を覚ましたとき、「<まことに>主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と驚きますが、ここで「まことに」と訳されたのはこの語です(創28:16)。
 このような用法からさらに進み、今まで思い込んでいたことの間違いに気づかされたときの驚きや後悔を表すこともあります。その代表例が、イザ53:4です。苦難の僕は自分で犯した罪のゆえに病と痛みに苦しんでいるのだと思っていましたが、「ところが実は」、人々の病と痛みを担っていたのです。また、死ぬのではないかと恐怖に陥りましたが、「それでもなお」神は叫びを聞いて、救い出してくださいました(詩31:23)。
 今週の朗読でも「ところが実は」の意味で使われています。捕囚からの解放を説く第二イザヤの言葉は、聞かれることなく、むなしく虚空に消えて行くように見えますが、「ところが実は」、神が彼の正しさを明らかにし、報いてくれると信じています。

 

 

第二朗読

使徒言行録 13章22―26節

22 それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』
23 神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。
24 ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。
25 その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』
26 兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。

第二朗読


値打ちがある・アクシオス

 もともとは、天秤にかけた二つのものが釣り合うことを表す形容詞で、あるものが別のものと「等しい値打ちがある」を意味し、値打ち以外の関係を表す用例では「ふさわしい、適切な」という意味を表します。
 キリスト者の現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、「取るに足りない」とパウロは教え(ロマ8:18)、洗礼者ヨハネは、悔い改めに「ふさわしい」実を結ぶようにとファリサイ派やサドカイ派の人々に命じます(マタ3:8並行)。イエスに「ふさわしく」ないのは、自分の十字架を担ってイエスに従わない者であり(マタ10:38)、遠い国で父の財産を使い果たした息子は、息子と呼ばれる「資格はない」と認めました(ルカ15:19)。
 今週の朗読では、自分はイエスの足の履物を脱がせる「値打ちもない」という洗礼者ヨハネの言葉を伝えています。神へと人々の心を向けさせるヨハネを、民衆はメシアではないかと考えました。しかし、ヨハネは、自分はメシアと釣り合う者ではなく、メシアの到来を予告する者であることをこの言葉で示しました。

 

 

今週の福音

ルカによる福音書 1章57―66・80節

57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。
58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。
60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、
62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。
63 父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。
64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。
65 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。
66 聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。
80 幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

今週の福音


大きくする・メガリューノー

 今週の福音の58節「主がエリサベトを大いに慈しまれた」を直訳すると、「主はエリサベトに対して慈しみを<大きくした>」となります。この動詞「大きくする(メガリューノー)」は文字通りには「何かを大きくする」の意味です。律法学者やファリサイ派が衣服の房を「長くする」のは、人の目をひきつけるためです(マタ23:5)。また、パウロはその働きがコリントの人々の間で「増大する」ことを望んでいますが、それは神が定めた範囲内でのことです(2コリ10:15)。
 次に比喩的に使われると、「崇める・賛美する」の意味になります。賛美される対象は、主であり(ルカ1:46)、神であり(使10:46)、主イエスの名であり(使19:17)、キリストです(フィリ1:20)。人間がその対象となる用例は一度であり、それは多くのしるしと不思議な業を行っていた使徒たちです(使5:13)。
 今週の朗読では、神が慈しみを「大きくした」の意味です。神は常に人に慈しみを示していますが、エリサベトに対していつも以上にそれを大きくしました。


 

 

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