C年年間第18主日
労苦した結果は地上的なものいったいだれのものになるのか

第一朗読


コヘレトの言葉 1章2節・2章21―23節

2 コヘレトは言う。
   なんという空しさ
   なんという空しさ、すべては空しい
21 知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。
22 まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。
23 一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。

第一朗読

空しさ・ヘヴェル

 この語は基本的には「蒸気・もや」とか「」を表します。箴言21:6「うそをつく舌によって財宝を積む者は吹き払われる<息>、死を求める者」で「息」と訳された語はこの語ヘヴェルです。
 そこから「蒸気のように消えてゆき、とめどのない空しさ」を表すことになります。そのようなものの代表は偶像ですから、まずこの語は偶像を表します。沃地に定着したイスラエルは「空しいもの」の後を追い、空しいものとなりました(エレ2:5)。
次に、せっかくの努力も受け入れられずに、空しさをかみ締める個人に使われます。主の僕は捕囚からの解放を説きますが、うつろに「むなしく」力を使い果たしたと吐露せざるを得ません。
 最後に、「コヘレトの言葉」での用例です。労苦の結果はどれも「空しく」、風を追うようなことであり(2:11)、悪が滅び、善が栄えるとは限らないこの世の現実も「空しい」ものであり(8:10)、動物のように死んでゆく人間存在そのものが「空しい」ことです(3:19)。
 なお、この語の全用例71回のうち36回は「コヘレトの言葉」での用例です。

 

 

第二朗読

コロサイの信徒への手紙 3章1―5・9―11節

1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
11 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

第二朗読


心を留める・フロネオー

 この動詞は新約聖書に26回用いられますが、そのうち22回はパウロ書簡に使われ、特にフィリピ書(10回)とロマ書(9回)での用例が突出しています。この語は「考える、思う」を意味しますが、知性の働きだけでなく、意志の動きも表し、「考えた結果、態度を決める」という意味合いをもっています。
 まず、「考える、判断する、思う」を意味します。フィリピの人たちが牢獄にいるパウロに「心遣いをし」、物を送って助けようとしたことをパウロは喜び(フィリ4:10)、同じ「思いとなり」、一つの「思いになる」ようにと勧めます(フィリ2:2、ロマ15:5、2コリ13:11)。
 また、何かに「心を向ける」の意味で用いられます。肉に属することを「考える」者は肉に従って歩み(ロマ8:5)、神のことを「思わない」ペトロをイエスは叱りました(マタ16:23)。さらに、「考え方を持つ、心がける」を意味しますが、これはフィリ2:5にだけ見られます。今週の朗読では、キリスト者が「心を留める」のは上にあるものであると述べます。上へと心を向けて歩むのは、地上の命を生き抜くためです。

 

 

今週の福音

ルカによる福音書 12章13―21節

13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい
19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

今週の福音


しまっておく・シュナゴー

 この語は接頭辞シュン〈一緒に〉と動詞アゴー〈連れて行く〉とによる合成動詞ですから、基本的には「一つに集める」ことを表します。
まず「何か事物を集める」の意味になります。実りを刈り入れれば、それを倉に「集めます」が(マタ3:12)、実をならせないぶどうの枝は「集められ」焼かれてしまいます(ヨハ15:6)。
 次に「だれか人々を集める」ことを表します。ヘロデ王は祭司長たちや律法学者たちを「集め」、メシアが誕生する場所を問いただし(マタ2:4)、彼らは「集まり」、逮捕したイエスの裁判を行います(ルカ22:66)。イエスは散らされている神の子たちを「集める」ために死に(ヨハ11:52)、終わりの時にはすべての民が彼の前に「集められ」、右と左に裁き分けられます(マタ25:32)。
今週の福音では、17節と18節で「しまっておく」と訳されていますが、収穫物を自分のために「集める」だけで、外に出して他人と分かち合うことのない貪欲な態度を表しています。


 

 

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