| 第一朗読
          
        シラ書 3章17―18・20・28―29節 
         
        17 子よ、何事をなすにも柔和であれ。 
             そうすれば、施しをする人にもまして愛される。 
        18	偉くなればなるほど、自らへりくだれ。  
             そうすれば、主は喜んで受け入れてくださる。 
        20	主の威光は壮大。  
             主はへりくだる人によってあがめられる。 
        28	高慢な者が被る災難は、手の施しようがない。  
             彼の中には悪が深く根を下ろしている。 
        29	賢者の心は、格言を思い巡らし、  
             知者の耳は、格言を熱心に聴く。     
      
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第一朗読 
柔和・プラーユテース 
 
 この語は基本的には「他人の弱さに適応できる強さを備えた柔和さ」を意味します。シラ書では5回使われていますが、45:4では名詞ピスティス〈信仰〉と一緒に使われ、36:28では形容詞エレオス〈憐れみ深い〉と一緒に用いられ、4:8では、形容詞エイレーニコス〈平和的な〉と一緒です。 
 このように、この語は語義の上から考えると、「信仰・憐れみ・平和」といった言葉と重なります。ですから、「柔和」といっても、神への信仰がもたらす憐れみ深さと平和な心を含み持つ「柔和さ」であり、しっかりとした土台をもった「柔和さ」だと言えます。 
 このような土台は人間の能力によっては築き上げることはできません。人間が単独で造る土台は、どこかにもろさを抱えています。神への信仰を踏まえた土台はしっかりしたものになります。 
 ですから、今週の朗読で「子よ、何事をなすにも<柔和>であれ」とさとすときも、ただの優しさではなく、「芯の強い、しなやかさ」を指しているのであり、信仰から生まれる「柔和さ」だと言うべきです。 
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第二朗読
         ヘブライ人への手紙 12章18―19・22―24a節 
         
        18―19 
        あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。 
        22 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、 
        23 天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、  
        24a 新しい契約の仲介者イエスなのです。    
         
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第二朗読
 
 
燃やす・カイオー 
 
 この動詞は、まず「燃やす、燃えさせておく」を意味します。着火という行為そのものより、燃え続けさせることに重点があります。ともし火を「ともして」升の下に置く者はおらず(マタ5:15)、ヨハネは「燃えて」輝くともし火でした(ヨハ5:35)。 
 さらに、転義して、心が「燃やされる」の意味になります。エマオに向かった二人の弟子は、イエスが道で聖書を説明したとき、心が「燃えていた」ではないか、と語り合いました(ルカ24:32)。 
 次に、「焼き尽くす、焼き払う」を意味します。毒麦は集められて火で「焼かれ」(マタ15:40)、イエスにつながっていなければ、人は枝のように枯れ、集められ、火に投げ入れられて「焼かれてしまいます」(ヨハ15:6)。 
 今週の朗読では名詞ピュール〈火〉と一緒に用いられています。荒れ野のイスラエルに神は「<燃える>火」となってご自分を現しました。民が生きるためにと律法を与えた神の思いに触れるなら、エマオの弟子のように心が燃えたはずです。人の心に火をともし続けるために、神は新しい契約をイエスに託しました。 
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今週の福音
 ルカによる福音書 14章1・7―14節 
 
1 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。  
7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。  
8「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 
9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。  
10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。  
11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」 
12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。  
13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。 
14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」       
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今週の福音
 
 
低くし、へりくだる・タペイノオー 
 
 この語は、ルカ3:5「谷はすべて埋められ、山と丘はみな<低くされる>」のように、文字通りに「高いものを低くする」を意味します。しかし、転義して心の状態を表すためにも使われます。 
 一般的に言えば、「低さ」は無力さとか、貧しさとか、道徳的な卑しさの象徴とされ、避けられるべき恥と見られるのが普通ですが、聖書では肯定的に評価されています。イエスは「へりくだって」十字架の死に至るほどに従順となり、神の前に自分を低くされました(フィリ2:8)。そのように、「自分を低くして」子供のようになる人が、天の国ではいちばん偉大な人になります(マタ18:4)。 
 今週の福音の11節に「だれでも高ぶる者は<低くされ>、<へりくだる者>は高められる」とありますが、「低くされる」はこの語の受動形であり、終末時における神の介入を表しています(神的受動形)。続く「へりくだる者」はこの語の能動形であり、自分の思いよりも、神の思いを先に立て、神の前に自分を低くして、従順に生きる者を表しています。
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