C年年間第25主日
このことを聞けすべての人々が救われて永遠の住まいに迎え入れてもらえる

第一朗読


アモス書 8章4―7節

このことを聞け
   貧しい者を踏みつけ
   苦しむ農民を押さえつける者たちよ。
5 お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。6 弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」
7 主はヤコブの誇りにかけて誓われる。
   「わたしは、彼らが行ったすべてのことを
   いつまでも忘れない。」

第一朗読

誇り・ガーオーン

 この語は動詞ガーアー〈高くする〉から派生した名詞で、まずは「誇ることのできる栄え・威光」を表しますが、悪い意味で「高慢さ」をも意味します。人間的な力や美しさへの「誇り」を神は嫌うので(エゼ24:21、イザ23:9)、エジプトの「誇り」を踏みにじり(エゼ32:12)、ペリシテ人の「高ぶり」を絶ち(ゼカ9:6)、神に立ち帰ろうとしないイスラエルの「高慢」を砕きます(ホセ7:10、エレ13:9)。しかし、来るべき日にはイスラエルが神のとこしえの「誇り」となります(イザ60:15)。
 この語は神にも使われます。神は大いなる「威光」をもって敵を滅ぼし(出15:7)、来るべきメシアは主の御名の「威厳」をもって群れを養います(ミカ5:3)。しかし、高ぶる者は主の「威光」を避けねばなりません(イザ2:10)。珍しい用例ですが、この語がヨルダンに使われれば、ヨルダンの「森」や「密林」を指します(エレ49:19、12:5、ゼカ11:3)。
 今週の朗読では、ヤコブに使われていますが、アモスでのヤコブは尊大さの象徴ですから、一種の皮肉だと言えます。

 

 

第二朗読

テモテへの手紙一 2章1―8節

 1 そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。2 王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。3 これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。4 神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。5 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。6 この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。7 わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。
 8 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。

第二朗読


良い・カロス

 この語は「よい」を意味しますが、よさをどのような観点に基づいて評価するかによって、意味合いも変わってきます。まず、美的な評価を表し、外面に使われ、「美しい」を意味します。神殿を飾るのは「美しい」石です(ルカ21:5)。
 次に、性質のよさを表します。事物に関しては「有用な、価値のある」を意味し(マタ13:48、12:33)、倫理的なよさを表す場合、多くは人の行為が「善い、立派な、賞賛に値する」を意味します(マタ5:16、ヨハ10:32)。また、あらゆる点から見て卓越しており、欠点や非難の余地のないことを表しますが、唯一の羊飼いであるイエスは、この意味で「<良い>羊飼い」と呼ばれます(ヨハ10:11・14)。
 さらに、「…するのはよい」と用いて、「道徳的によい、神に喜ばれる、救いの一因となる」を意味します(マコ9:5)。
 牧会書簡はこの語によってキリスト者の生活が「優れている」ことを表そうとしています。今週の朗読では、「神の前に…喜ばれる」という句と一緒に用いられています。キリスト者の行いが「良い」と言われるのは、それが「神の見るところでよい」からです。

 

 

今週の福音

ルカによる福音書 16章1―13節

 1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

今週の福音


忠実な・ピストス

 この語は名詞ピスティス〈信仰〉とか動詞ピステウオー〈信じる〉と同根の形容詞です。まず能動的に使われ、(1)「何かを信じている・信頼している」を表します。イエスはトマスに「信じない者ではなく、<信じる者>になりなさい」とさとします(ヨハ20:27)。テモテは、「信者」のユダヤ婦人とギリシア人の父親との間に生まれました(使16:1)。
 次に受動的に使われ、(2)「他から信じられている・頼られている」の意味になります。ティキコは愛する兄弟、「忠実に」仕える者です(コロ4:7)。また、救いを約束をしてくださった神は「真実な方」だし(ヘブ10:23)、イエスは罪人を救うために来たという言葉は、「真実で」す(1テモ1:15)。
今週の福音では合計4回使われていますが、いずれも(2)の意味で使われていると思われます。この世の富はごく小さなもので、他人のものにすぎませんが、それらに関して「信頼され」なければ、本当に価値のある天の富が与えられることはありえません。


 

 

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