C年年間第29主日
手を上げて確信したことから離れず気を落とさずに絶えず祈る

第一朗読


出エジプト記 17章8―13節

 8 アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、9 モーセはヨシュアに言った。
「男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。」
 10 ヨシュアは、モーセの命じたとおりに実行し、アマレクと戦った。モーセとアロン、そしてフルは丘の頂に登った。11 モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。12 モーセの手が重くなったので、アロンとフルは石を持って来てモーセの下に置いた。モーセはその上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられていた。13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣にかけて打ち破った。

第一朗読

杖・マッテー

 この語は約250回使われていますが、そのうち約180回は「部族」と訳されています。この語そのものは「」を表しますが、部族の指導者が手にする「」がその部族のシンボルと見られ、そこから「部族」の意味でも用いられるようになったと思われます。
 ユダは「杖」を手にして、旅に出て行きました(創38章)。ユダはかなりの年齢に達していたと思われるので、歩行を容易にするための杖でしょうが、若いヨナタンも「杖」を携えて、戦場に向かっています(サム上14章)。ヨナタンの場合には、指図を与えるための指揮棒として使われたと思われます。
 物語に登場する「杖」はあまり華々しい活躍をすることはありませんが、例外はモーセとアロンの「杖」です。アロンの「杖」はファラオの前で蛇に変わり、エジプトの水という水を血に変え(出7章)、モーセは「杖」で葦の海を左右に分けます(出14章)。
 今週の朗読に登場する「神の杖」は真の力は神から来ることを示していますが、戦いの最中には一度も用いられていないので、後の付加かもしれません。

 

 

第二朗読

テモテへの手紙二 3章14節―4章2節

 14 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。17 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。
 1 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

第二朗読


励む・エフィステーミ

 この動詞はまず、「そばに立つ、近くに立つ、近づく、現れる」を意味し、しばしば「突然」という意味合いを含みます。主の天使は羊飼いたちに「近づき」(ルカ2:9)、イエスは枕もとに「立って」熱を叱りつけ(ルカ4:39)、婦人たちが主イエスの遺体を見つけられず途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人が「そばに現れました」(ルカ24:4)。また、主の使いたちではなく暴動を起こす人や破滅が近づけば、「襲う」の意味になります(使17:5、6:12、1テサ5:3、ルカ21:34)。
 次に、「そばに立っている、居合わせる、差し迫っている」を意味します。パウロはステファノが殺されたとき、「その場にいて」賛成しましたが(使22:20)、回心して、福音宣教者としての務めを果たし、世を去る時が「近づいた」ことを受け入れています(2テモ4:6)。
 今週の朗読でこの動詞は「励みなさい」と訳されています。これは「用意しなさい、すぐにできるようにしなさい」を意味します。御言葉を宣べ伝える者が常に備えているのは、真理から遠い人々のそばに立ち、救いへと導くためです。

 

 

今週の福音

ルカによる福音書 18章1―8節

 1 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。2「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。3 ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。4 裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。5 しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」6 それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。8 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

今週の福音


叫び求める・ボアオー

 この語の基本的な意味は「叫ぶ、大声で呼ぶ」ですが、どのような状況で叫ぶか、どんな叫び声をあげるかによって、次のような違いが現れます。
 まず、一般的に「叫び声をあげる」を意味します。ユダヤ人はこぞってパウロを生かしておくべきではないと「叫び」ましたが(使25:24)、神の約束によって子を得る不妊の女は、喜びの声をあげて「叫ぶ」ことができます(ガラ4:27)。
 次に、神の使信を宣言するという意味を表します。イエスの到来を告げる洗礼者ヨハネは、イザヤが預言した荒れ野で「叫ぶ者」です(マタ3:3並行)。
 また、「苦痛の叫びをあげる、助けを求めて叫ぶ」を意味し、逃れようのない苦境に立たされた者が神に向けてあげる叫びを表します。目の見えない人はイエスに憐れみを求めて「叫び」(ルカ18:38)、イエスは十字架の上で神に大声で「叫びました」(マタ27:46並行)。
 今週の朗読では、やもめが正しい裁きを求め続けます。「叫び求める」のは、神が応えてくださると信じるからです。


 

 

今週の朗読のキーワードに戻る