C年年間第31主日
存在するものをすべて愛し招きにふさわしいものとし罪深い男のところに行って宿をとった

第一朗読


知恵の書 11章23節―12章2節

23 全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、
      回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。
24 あなたは存在するものすべてを愛し
     お造りになったものを何一つ嫌われない。
     憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。
25 あなたがお望みにならないのに存続し、
     あなたが呼び出されないのに存在するものが
   果たしてあるだろうか。
26 命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、
   あなたはすべてをいとおしまれる
1  あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。
2  主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、
    罪のきっかけを思い出させて人を諭される。
    悪を捨ててあなたを信じるようになるために。

第一朗読

いとおしむ・フェイドマイ

 この語は七十人訳では94回使われ、そのうち5例が知恵の書の用例です(新約聖書での用例は10回)。まず、「差し控える・寛大に扱う」ことを表します。知1:11「無意味な不平を鳴らさず、悪口を<慎め>」はこの用法に含まれます。また、知2:10「寡婦だからといって<容赦しない>」では、否定詞とともに使われており、「虐げることを差し控えはしない」の意味です。
 しかし、この語は「差し控える」といった消極的な意味では終わらず、さらに「惜しむ・いとおしむ」といった積極的な態度をも表します。知12:8「あの者たち(=悪行を行う者)も人間であるということで、あなたは彼らを<いとおしまれ>」では、文脈から考えて「刑罰を差し控え、寛大に扱う」といった意味かもしれませんが、知12:16「あなたの力は正義の源、あなたは万物を支配することによって、すべてを<いとおしむ方>となられる」では、新共同訳のように「いとおしむ」と訳すのがよいと思われます。
 今週の朗読でも、被造物に対する神の愛が強調されており、「いとおしむ」の意味だと思われます。

 

 

第二朗読

テサロニケの信徒への手紙 U 1章11節―2章2節

 11 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。12 それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。
 1 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。2 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。

第二朗読


動揺する・サレウオー

 この動詞は、文字どおりには「揺り動かす、ぐらつかせる」を意味します。荒れ野には風に「そよぐ」葦があり(マタ11:7並行)、人の子が来る時には天体が「揺り動かされます」(マタ24:29並行)。与えるなら、「揺すり入れ」あふれるほどに量りをよくしてもらえるとイエスは教え(ルカ6:38)、イエスの言葉を聞いて行う人は、洪水が「揺り動かすこと」のできない家を建てた人に似ています(ルカ6:48)。
 また、転義して「動揺させる、当惑させる」を意味します。主がわたしの右におられるので、決して「動揺し」ないと歌われているのはイエスのことであるとペトロは教え(使2:25)、パウロの宣教をねたむテサロニケのユダヤ人は群衆を「扇動し」騒がせました(使17:13)。「揺り動かされるもの」とは現在のこの世界の天と地であり、「揺り動かされないもの」とは来るべき神の国です(ヘブ12:27)。
 今週の朗読が「動揺しないように」と警告するのは、キリスト者の右には主がおり、揺り動かされない神の国に入るのにふさわしい者とされているからです。

 

 

今週の福音

ルカによる福音書 19章1―10節

 1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

今週の福音


救う・ソーゾー

 この語は、まず(1)「さまざまな危険や困難から人を救う・守る」を意味します。水に沈みかけたペトロは「助けてください」とイエスに叫び(マタ14:30)、人々は十字架のイエスに向かって、そこから降りて自分を「救ってみろ」と嘲ります(マコ15:30)。イエスはヤイロの娘(マコ5:23)、十二年間長血をわずらった女性(マコ5:34)、重い皮膚病の人々を「救った」のに(ルカ17:19)、十字架の自分を救おうとはしなかったからです(マコ15:31)。
 次に(2)「(宗教的な意味合いを込めて)永遠の死や罪から救う」ことを表します。神は宣教という愚かな手段によって人々を「救おう」としたので(1コリ1:21)、福音宣教に従事するパウロはそれによって人々を「救う」ことになります。(ロマ11:14)。
 ザアカイは特別な危険や困難を抱えてはいません。ですから、(2)の意味での救いにあずかったことになります。このような救いに招かれたので、貧しい者に施す人になります。


 

 

今週の朗読のキーワードに戻る