C年王であるキリスト主日
主の御前に罪の赦しを得て一緒に楽園にいる

第一朗読


サムエル記下 5章1―3節

 1 イスラエルの全部族はヘブロンのダビデのもとに来てこう言った。「御覧ください。わたしたちはあなたの骨肉です。2 これまで、サウルがわたしたちの王であったときにも、イスラエルの進退の指揮をとっておられたのはあなたでした。主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがイスラエルの指導者となる』と。」
 3 イスラエルの長老たちは全員、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデ王はヘブロンで主の御前に彼らと契約を結んだ。長老たちはダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とした。

第一朗読

指導者・ナーギード

 この語の語根は「高く、目立つものを人の前に置くこと」を意味すると思われ、そこから「政治、軍事、宗教など、いろいろな分野での指導者」を表し、「指導者・高官・君主・神殿の最高監督者」などと訳されています。
 次に、高位聖職者兵隊の長に使われます。エレミヤと同時代人パシュフル(エレ20:1)も大祭司もこの称号を受けていますし(代下35:8)、部族の「指導者」(代上27:16)、兵士の「指導者」(代上12:28)、千人隊や百人隊の「指導者」(代上13:1)にも使われています。
 しかし、多くはに使われます。即位後の王に使われる用例は、サム下6:21のダビデ、王上14:7のヤロブアム、王下20:5のヒゼキヤなどですが、即位以前の人物にも用いられます。例えば、サウルが正式に王となるのはサム上10:24、サム上11:15ですが、それ以前に、サムエルと二人だけのところでサムエルから油を注がれ「指導者」とされています(サム上10:1)。この語は「いずれは王位につくべき者の、即位以前の呼称」としても使われたのだと思われます。

 

 

第二朗読

コロサイの信徒への手紙 1章12―20節

 12 光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。13 御父は、わたしたちをの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。14 わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。18 また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。19 神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、20 その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

第二朗読


闇・スコトス

 この語は、まず文字どおりに「闇、暗闇」を意味します。礼服を着けていない婚宴の客は外の「暗闇」にほうり出され(マタ22:13)、イエスが十字架にかけられた時、全地は「暗く」なりました(マタ27:45並行)。
 次に、転義して、誰にも知られていない状態を表します。主は「闇」の中に隠されている秘密を明るみに出して裁きます(1コリ4:5)。さらに「光」と対比され、宗教的、道徳的な闇、罪によって引き起こされている暗さ、不信仰な者や神なき者の状態を表します。「暗闇」に住む民が大きな光を見たのに(マタ4:16)、悪を行う者はその行いが明るみに出されるのを恐れて、光よりも「闇」の方を好みました(ヨハ3:19)。しかし、キリスト者は光の子であり、「暗闇」には属していないから、主の日が突然襲うことはありません(1テサ5:4―5)。
 今週の朗読でも光の領域と闇の領域が対比され、神は私たちを「闇」の力から救い出し、その愛する御子の支配下に移したと述べています。神の愛が現された御子の十字架に光を見た者は、二度と闇の支配に下ることはありません。

 

 

今週の福音

ルカによる福音書 23章35―43節

 35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
 39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

今週の福音


刑罰・クリマ

 この語は動詞クリーノー〈分ける・裁く〉から派生した名詞です。(1)「(裁判を必要とする)争い・訴訟」を表します。教会員の間に「裁判ざた」があること自体が敗北です(1コリ6:7)。
 次に(2)「決定・判定」の意味でも使います。神の「定め」は計り知れません(ロマ11:33)。
 次に(3)「(神が行う)裁き・審判」を指します。来るべき「裁き」があり(使24:25)、永遠の「審判」があります(ヘブ6:2)。
次に(4)「裁判による判定・判決」を表し、だいたいは「有罪判決・刑罰」の意味になります。律法学者は人一倍厳しい「裁き」を受け(マタ23:14)、神の決定に背く者は自分の身に「裁き」を受けます(ロマ13:2)。他に、兄弟への配慮を欠く者(1コリ11:29)、信徒を惑わす者(ガラ5:10)、高慢になった者(1テモ3:6)、偽教師たち(2ペト2:3)、不信心な者(ユダ4)が「裁き」を受けます。今週の福音でも「(有罪判決にもとづく)刑罰」の意味です。


 

 

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