A年主の洗礼
民の契約、諸国の光として平和を告げ知らせ正しいことをすべて行う

第一朗読
イザヤ書 42章1―4、6―7節

1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。
   わたしが選び、喜び迎える者を。
   彼の上にわたしの霊は置かれ
   彼は国々の裁きを導き出す。
2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
3 傷ついた葦を折ることなく
   暗くなってゆく灯心を消すことなく
   裁きを導き出して、確かなものとする。
4 暗くなることも、傷つき果てることもない
   この地に裁きを置くときまでは。
   島々は彼の教えを待ち望む。
6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
   あなたの手を取った。
   民の契約、諸国の光として
   あなたを形づくり、あなたを立てた。
7 見ることのできない目を開き
   捕らわれ人をその枷から
   闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
第一朗読 
イザヤ書 42章1―4、6―7節

  支える・ターマフ

 この語は文字通りには「しっかりとつかむ」を意味します。ヨセフは父ヤコブの右手を「取って」、長子マナセの頭の上に移そうとします(創48:17)。勤勉な妻は手の平に錘を「あやつり」(箴31:19)、王は笏を手に「持つ者」です(アモ1:5)。義人がしっかりと「保つ」神の道とは(詩17:5)、賄賂を「つかむ」ことを拒み(イザ33:15)、裁きの正しさが「保たれる」ようにとする行動に具体化します(ヨブ36:17)。だから、流血の罪の重荷を負う者を「援助してはならず」(箴28:17)、名誉や富を「わがものとする」こともふさわしくありません(箴11:16)。
 次に「持ち上げ、支える」の意味でも使います。アマレクとの戦いで、アロンとフルはモーセの手を「支え」ました(出17:12)。また、僕イスラエルを右手で「支える」のは神ですから(イザ41:10)、苦しみにある者は「支えてください」と神に祈り(詩63:9)、無垢な自分を「支え」、とこしえに御前に立たせてください、と祈ります(詩41:13)。そのとき、心の低い人は誉れを「受ける」ことになります(箴29:23)。
 

 

第二朗読
使徒言行録 10章34―38節

34 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。
35 どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。36 神がイエス・キリストによって---この方こそ、すべての人の主です---平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、
37 あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。
38 つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。
第二朗読 
使徒言行録 10章34―38節

  行う・エルガゾマイ

 まず、自動詞として「働く、活動している」を意味します。パウロは苦労して自分の手で「稼いで」おり(1コリ4:12)、落ち着いた生活をして自分の手で「働くように」と勧めます(1テサ4:11)。
 次に、他動詞として「行う、成し遂げる、果たす、もたらす」を意味します。テモテはパウロと同様、主の仕事を「しており」(1コリ16:10)、すべて善を「行う者」には、ユダヤ人にもギリシア人にも栄光と誉れと平和が与えられます(ロマ2:10)。神の御心に適った悲しみは救いに通じる悔い改めを「生じさせ」ますが(2コリ7:10)、人の怒りは神の義を「実現し」ません(ヤコ1:20)。イエスは群衆に、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために「働きなさい」と命じますが(ヨハ6:27)、この食べ物は人の子が与える食べ物ですから、ここでは「賜物を求めなさい、受け取りなさい」の意味だと思われます。
 今週の朗読でも、神が差し出す正しさを「受け取りなさい」の意味であるかもしれません。幻に神の真意を見たペトロは、神の正しさを受け取って、その正しさのために働いた一人です。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 3章13―17節

13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
今週の福音 

 心に適う・エウドケオー

 この語は基本的には「何かに満足し、それをよしとする」ことを表します。パウロは自分の命を与えたいと「喜んで願った」ほどにテサロニケの人々をいとおしく思いましたが(1テサ2:8)、彼らもエルサレムの聖なる者たちを援助することに「喜んで同意しました」(ロマ15:26)。
 これは人間を主語とする用例ですが、神を主語とする用例のほうが多く、全用例の三分の二を占めています。いけにえを「好まなかった」神は、キリストが自分の体をささげることを許し(ヘブ10:6)、宣教という愚かな手段によって、信じる者を救おうと「お考えになりました」(1コリ1:21)。そこで、共観福音書の用例(6回の内5回)では、キリストが神の「心に適う者」と呼ばれています。
 神は神の国を与えることを「喜ぶ」方ですが(ルカ12:32)、神の心に「適わなかった」先祖たちが荒れ野で滅ぼされたように(1コリ10:5)、もしひるむようなことがあれば、神の心に「適わない」者とされます(ヘブ10:38)。



 

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