A年年間第4主日
苦しめられ、卑しめられた民世の無に等しい者あなたがたは幸いである)

第一朗読
ゼファニヤ書 2章3節、3章12―13節

二3 主を求めよ
      主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた
      この地のすべての人々よ
      恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ
      主の怒りの日に
      あるいは、身を守られるであろう。
三12 わたしはお前の中に
      苦しめられ、卑しめられた民を残す。
      彼らは主の名を避け所とする。
 13 イスラエルの残りの者は
      不正を行わず、偽りを語らない。
      その口に、欺く舌は見いだされない。
      彼らは養われて憩い
      彼らを脅かす者はない。
第一朗読 
ゼファニヤ書 2章3節、3章12―13節

   求める・バーカシュ

この語は基本的には「必要とするものを得ようとして探し求める」ことを意味します。まず@「発見しようと捜す」の意味で使われます。それは誰か人物であり(創37:15・16)、ろば(サム上10:14)、牧草地(代上4:39)、家系の記録(エズ2:62)、銀(箴2:4)、パンや酒(詩37:25、箴23:35)になります。
次にA「何かを獲得しようと努力する」の意味になります。それは真実であったり(エレ5:1)、平和や知恵のこともありますが(詩34:15、箴14:6)、多くは人の命であり(出4:19)、人への危害です(民35:23)。
次にBときには名詞「顔」を目的語として伴い「拝謁する」を意味します。ソロモンのような人物への拝謁のこともありますが(王上10:24)、ほとんどは神がその対象であり、その目的は助けや教えを求めることにあります(ホセ5:15、出33:7、詩105:3)。
今週の朗読では2:3で三度も使われています。最初の「主を求める」ではBの意味であり、続く「恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ」ではAの意味で使われています。
 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙 T 1章26―31節

26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
第二朗読 
コリントの信徒への手紙 T 1章26―31節

   無力な・アスセネース

 この語は新約聖書に26回用いられますが、そのうち11回は、今週の朗読である「コリントの信徒への手紙 一」に用いられます。
 まず、文字どおりに「力のない、弱い」を意味します。イエスは神の国を宣べ伝え、「病人」をいやすために十二人を遣わし(ルカ9:2)、「病気の」とき訪ねてくれなかった者を責めます(マタ25:43)。また、一般的に「弱い」の意味で、形容詞イスキューロス〈力強い〉の反意語として用いられます。パウロは自分のことを、手紙は力強いが、実際に会ってみると「弱々しい人」であると言う者がいるのを知っています(2コリ10:10)。
 次に、転義して「貧弱な、弱々しい、みじめな」を意味し、罪人であったときの弱さ(ロマ5:6)や信仰の弱さ(1コリ8:7、9:22)を表すこともあります。
 今週の朗読では転義して用いられています。神が世の「無力な」者を選び、力ある(イスキューロス)者に恥をかかせるのは、神の「弱さ」は人よりも強いことを知らせるためです(1コリ1:25)。弱さの中に神の力が働くから、弱さを誇り、ただ神のみを誇ることになります。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 5章1―12a節

1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。
腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3「心の貧しい人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。
4 悲しむ人々は、幸いである、
  その人たちは慰められる。
5 柔和な人々は、幸いである、
  その人たちは地を受け継ぐ。
6 義に飢え渇く人々は、幸いである、
  その人たちは満たされる。
7 憐れみ深い人々は、幸いである、
  その人たちは憐れみを受ける。
8 心の清い人々は、幸いである、
  その人たちは神を見る。
9 平和を実現する人々は、幸いである、
  その人たちは神の子と呼ばれる。
10 義のために迫害される人々は、幸いである、
  天の国はその人たちのものである。
11 わたしのためにののしられ、迫害され、
  身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
  あなたがたは幸いである。12 喜びなさい。
  大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
  あなたがたより前の預言者たちも、
  同じように迫害されたのである。」
今週の福音 
マタイによる福音書 5章1―12a節

   貧しい・プトーコス

 古典ギリシア語では「物乞いをし、他人の援助を必要とする」を意味する形容詞で、名詞形になれば、「物乞い・乞食」を表しますが、聖書では物質的に貧しいことに加えて、貧しさに苦しむがゆえに神の救いを必要とし、それをひたすら待ち望む人といった意味合いでも使われます。
 イエスが「貧しい人」に福音を告げ知らせ(ルカ4:18―21)、「貧しい人」は幸いと宣言したように(ルカ6:20)、神はイエスを通して貧しい人のために介入しました。そこで、永遠の命のために「貧しい人々」に施すようにと諭します(マコ10:21)。神は世の貧しい人たちを選びましたから、立派な身なりの人と「貧しい人」とを分け隔てすべきではありません(ヤコ2:1以下)。
今週の福音の「心の貧しい人」を直訳すると、「霊において貧しい人」となります。これは「へりくだった心をもち、自発的に財産を放棄し、自分に頼らずに神の助けに信頼する人」のことだと言えます。



 

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