A年受難の主日
嘲りと唾を受け人間と同じ者になられたこの人は神の子だった)

第一朗読
イザヤ書 50章4―7節

4 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
   疲れた人を励ますように
   言葉を呼び覚ましてくださる。
   朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
   弟子として聞き従うようにしてくださる。
5 主なる神はわたしの耳を開かれた。
   わたしは逆らわず、退かなかった。
6 打とうとする者には背中をまかせ
   ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
   顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
7 主なる神が助けてくださるから
   わたしはそれを嘲りとは思わない。
   わたしは顔を硬い石のようにする。
   わたしは知っている
   わたしが辱められることはない、と。
第一朗読 
イザヤ書 50章4―7節

   呼び覚ます・ウール

 この語は「(行動へと)目覚めさせ、奮い立たせる」の意味です。人は眠りからは「起こされ」ますが(ゼカ4:1)、死という眠りからは「起こされる」ことがありません(ヨブ14:12)。また、人は自らを賛美へと「目覚めさせ」たり(詩57:9)、行動に「奮い立て」たりします(ヨブ17:8)。
 神は捕囚民を帰還させるためにペルシャの王キュロスを「奮い立たせ」(イザ41:2)、ユダの総督ゼルバベルを「奮い立たせて」神殿を再建させます(ハガ1:14)。
 人は苦しみ続けるとき、神が眠っているように思え、神が「奮い立ち」裁きを行うようにと嘆願し(詩44:24、7:7)、神が敵に対して力を「振るう」ようにと求めます(詩80:3)。
 「奮い立たせる」対象は神や人だけでなく、事物のこともあります。それは陰府の亡霊(イザ14:9)、剣(ゼカ13:7)、槍(サム下23:18)、鞭(イザ10:26)、風(雅4:16)、曙(詩57:9)であったり、愛(雅2:7)、いさかい(箴10:12)、憤り(詩78:38)、絶望の叫び(イザ15:5)であったりします。
 

 

第二朗読
フィリピの信徒への手紙 2章6―11節

6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
第二朗読 
フィリピの信徒への手紙 2章6―11節

   無にする・ケノオー

 この語は「空にする・内容を失わせる」を意味し、パウロの手紙にのみ5回用いられています。
 律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや「無意味」であるから(ロマ4:14)、キリストの十字架が「むなしいものになって」しまわぬように、パウロは言葉の知恵に頼らずに福音を告げ知らせます(1コリ1:17)。彼は神からゆだねられたこの務めを果たすために、福音によって生活の資を得る権利を何一つ利用しません。この誇りは「無意味なものにして」はならず(1コリ9:15)、コリントの人々に抱いている誇りが「無意味なものになら」ないように彼は兄弟を派遣します(2コリ9:3)。
 今週の朗読では、この語によってキリストの自己放棄の完全さが強調されます。キリストは自分の持っているものすべてを手放し、自分を「空にしました」。すべての人を救いの喜びに導くためです。空になったキリストに神は主という名を与えて満たします。すべての人が神をたたえ、喜びに満たされるためです。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 27章11―54節

32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、
36 そこに座って見張りをしていた。
37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当にこの人は神の子だった」と言った。
今週の福音 
マタイによる福音書 27章11―54節

   神の子

 この句はイエスへの信仰を表す「メシア称号」のひとつです。マルコは「神の子イエス・キリストの福音」について書き(マコ1:1)、ヨハネも人々が「イエスは神の子メシアであると信じるため」に福音書を著わしました(ヨハ20:31)。
 イエスの受洗と変容の際に、天からの声が「これはわたしの愛する子」と語りかけました(マタ3:17、17:5)。マルコ福音書によれば、最初にイエスを「神の子」と告白するのは汚れた霊でした(3:11、5:7)。しかし、マタイ福音書によれば、ペトロも弟子たちもイエスを神の子と告白します(16:16、14:33)。ヨハネ福音書では、イエス自身が御自分は「神の子」であるとほのめかしています(10:36、5:25)。
 今週の福音では、十字架にかかったままのイエスに向かってユダヤ人は「神の子なら、自分を救ってみろ」とののしりますが(40、43節)、イエスの死とそれに伴う出来事を目にした百人隊長や見張り人は「本当に、この人は神の子だった」と告白します(54節)。



 

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