A年聖霊降臨の主日
神の偉大な業を語り皆一つの体となるために聖霊を受けなさい

第一朗読
使徒言行録 2章1―11節

 1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
  2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
  4 すると、一同は聖霊に満たされ、霊≠ェ語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
  6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
  7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
  9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
  10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
  11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
第一朗読 

     舌・グローッサ

 この語は、まず、言葉を語る器官である「」を表します。イエスが舌の回らない人の「舌」に触れ、エッファタと叫ぶと「舌」のもつれが解け、話せるようになりました(マコ7:33・35)。「舌」は大言壮語したり(ヤコ3:5)、悪を語ったりしますが(1ペト3:10)、「イエス・キリストは主である」と公に宣べることもできます(フィリ2:11)。キリストを信じる者には、新しい「舌=言葉」が与えられます(マコ16:17)。
 しかし、この語は、「恍惚状態にある人物が語る、理解の難しい言葉・異言」を指すこともあります。例えば、1コリ14章で「異言を語る者」と訳された表現を直訳すれば、「舌で語る者」となります。
 今週の朗読では3回使われています。まず、3節では炎のような「舌」の形で降った聖霊を表し、4・11節では聖霊に満たされた弟子たちが語った、ほかの国々の「舌=言葉」に使われています。このような用例がさらに進むと、神に向けられた賛美の言葉としての「異言」の意味になります。それは霊に動かされて語る言葉、神からの賜物です。

 

 

第二朗読
コリントの信徒への手紙一 12章3b―7・12―13節

 3b神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
 4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
  5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
  6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
  7 一人一人に霊≠フ働きが現れるのは、全体の益となるためです。
 12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
  13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
第二朗読 

   務め・ディアーコニアー

 この語は、まず「食卓での給仕、物質的な援助」を意味します。マルタはいろいろの「もてなし」のためにせわしく立ち働き(ルカ10:40)、初代教会では日々の「分配」のことで苦情が出ました(使6:1)。
 次に、「愛の奉仕の実行」の意味でも用いられます。ステファナは聖なる者たちの「世話」をし(1コリ16:15)、聖なる者たちは「奉仕」の業に適した者とされて、キリストの体を造り上げます(エフェ4:12)。
 意味が限定され、「ある義務を背負うこと」を表します。異邦人のための使徒であるパウロは憐れみを受けた者としてその「務め」を果たし(ロマ11:13、2コリ4:1)、福音宣教者も苦しみを耐え忍びながらその「務め」を果たします(2テモ4:5)。さらに、「献金」もこの語で表され(ロマ15:31、2コリ9:1以下)、それがキリスト者にとって大事な愛の行為であることが示されています。
 今週の朗読では、主から与えられる「務め」を表します。キリスト者は主に仕える者として、教会全体のためにそれぞれの務めを果たしてゆきます。
 

 

今週の福音
ヨハネによる福音書 20章19―23節

 19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
  20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
  21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
  22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい
  23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
今週の福音 

   鍵をかける・クレイオー

 この語はクレイス〈鍵〉から派生した動詞で、「鍵をかけ、閉じる」を意味します。夜は戸を「閉めて」寝床に入り(ルカ11:7)、町に騒乱があれば門を「閉ざし」て鎮め(使21:30)、牢獄の戸には「鍵をかけて」逃亡を防ぎ(使5:23)、祈るときには部屋の戸を「閉めて」神と向かい合います(マタ6:6)。
 しかし、聖書に特徴的な用法として「天の国を<閉ざす>」があります。律法学者やファリサイ派の人々は天の国を「閉ざし」ているので、彼らだけでなく、人々も入ることができません(マタ23:13)。彼らは自力に頼り、イエスが説く神の憐れみに信頼しないからです。しかし、ダビデの鍵を持つイエスが門を開けるなら誰も「閉じる」ことができず、「閉じる」なら誰も開けることができません(黙3:7)。
 今週の朗読ではユダヤ人を恐れて戸に「鍵をかけていた」弟子たちのもとに、復活者が来て、真ん中に立ちます。イエスをメシアと告白する者には天が閉ざされることはありません。



 

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