A年年間第15主日
わたしの口から出る言葉を神の子とされるために耳のある者は聞きなさい

第一朗読
イザヤ書 55章10―11節

10 雨も雪も、ひとたび天から降れば
    むなしく天に戻ることはない。
    それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
    種蒔く人には種を与え
    食べる人には糧を与える。
11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉
  むなしくは、わたしのもとに戻らない。
    それはわたしの望むことを成し遂げ
    わたしが与えた使命を必ず果たす
第一朗読 

     必ず果たす・ツァーラハ

 この語は基本的には「進む・繁栄する」を意味しますが、今週の朗読のようにヒフィル(使役)形では次のように使われます。まず@「繁栄させる・成功させる」の意味で使われます。神は旅の目的を「かなえてくださり」(創24:21)、工事を「成功させてくださる」(ネヘ2:20)。ソロモンはすべての計画を「成し遂げた」(代下7:11)。
 次にA「繁栄を経験する」の意味になります。偶像に頼ろうとしても「成功する」はずがないが(エレ2:37)、真の預言者に信頼すれば、「勝利を得る」ことができる(代下20:20)。
 第二イザヤでは四回使われています。カル(語根に最も近い)形での用例は次の二つです。どのような武器も何一つ「役に立た」ない日(54:17)を到来させるのは、主の望まれることを「成し遂げる」苦難の僕です(53:10)。また、ヒフィル形での用例は今週の朗読箇所と、48:15「わたしが宣言し、わたしが彼(キュロス)を呼んだ。彼を連れて来て、その道を<成し遂げさせる>」との二箇所です。今週の朗読では、53:10との関連を考えるべきだと思われます。

 

 

第二朗読
ローマの信徒への手紙 8章18―23節

 18 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
  19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。
  20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
  21 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
  22 被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
  23 被造物だけでなく、霊≠フ初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
第二朗読 

   虚無・マタイオテース

 この語は、「空、空虚、無用、目的のないこと、はかなさ」を意味し、新約聖書での用例は3回です。
 エフェ4:17では、異邦人の考えを「愚か」と言います。彼らの愚かさは、神の命から遠く離れていることであり、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけるという生活となって現れます。また、2ペト2:18では、偽教師のことを「無意味な」大言壮語をする者と非難しています。彼らの言葉が無意味であるのは、迷いの生活からやっと抜け出てきた人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するからです。
 このような神から離れた空しさではなく、神が引き起こした空しさがあります。被造物は神によって創られた被造物であるのに、ただ人間との関係だけで見られたり、神格化されることによって、「虚無」に服しています。しかし、被造物が陥っている現在の苦しみは偶然や運命によるのではなく、神によって引き起こされたのですから、それは究極的な救いへのステップです。そうであるなら、苦しみの中でうめきながら、希望を持ち続けることができるはずです。
 

 

今週の福音
マタイによる福音書 13章1―9節

 1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
  2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
  3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
  4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
  5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
  6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
  7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
  8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
  9 ある者は聞きなさい。」
今週の福音 

   耳・ウース

 まず@文字通りに「聴覚器官としての耳」を意味します。救いの計画は「目が見ず、<耳>が聞かなかった」秘められた計画でした(1コリ2:9)。イエスは「耳」に指を差し入れて(マコ7:33)、人の声だけでなく、神の言葉を聞くことができるようにしました。
 次にA「聞いただけでなく、それを理解した人」を意味します。心が鈍り、「耳」が遠くなれば(使28:27)「耳」があっても聞こえない者になってしまいます(マコ8:18)。イエスは「この言葉をよく<耳>に入れておきなさい」と前置きして、受難を予告しますが、弟子たちは理解できませんでした(ルカ9:44)。キリストを信じることのできないユダヤ人は「かたくなで、心と<耳>に割礼を受けていない人たち」ですが(使7:51)、パウロは「神は彼らに聞かないための<耳>を与えられた」と述べて、彼らの拒否は神の計画に含まれていると説きます(ロマ11:8)。人間の妨害をも乗り越えて神は救いをもたらし、やがては彼らも神のもとに帰ることになります。



 

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